武術と秘伝

大道館道場館則、昭和初期。
大道館道場館則、昭和初期。

右の写真は本部朝基が昭和初期に制定した「大道館道場館則」である。正確な時期は不明であるが、大道館の所在地が「東京市小石川区原町126番地」と明記されているので、大体昭和5年から7年の間のものと推定される。この館則は、いわゆる「道場訓」ではないが、その内容は道場訓に相当するような条文も含んでいる。ちなみに、この当時空手(唐手)の道場というものはまだほとんど存在していなかった。また、道場訓という語が広まったのも、もっぱら戦後である。

 

この館則の条文はいま読み返すと、様々な面白いことが書いてある。その中の一つが第7条の「当館秘術ノ公表或ハ伝授ヲ禁ズ」という一文である。今日、武術の秘伝とか秘術とかいうと、嗤う人もいる。いまの時代、入門者に懇切丁寧に指導してくれる道場は多いし、とりわけ競技に力を入れている道場などでは、少年少女の頃から難度の高い型を教えたりする。昔なら入門十年目にしてようやく教えてもらえた型等も5歳の子供が演武していたりするから驚きである。

 

しかし、空手に限らず、本来武術は秘伝ということが原則だった。江戸時代のある武術流派の起請文には、親兄弟といえども教わった技を公開することは禁ずるだとか、口伝は書き留めることは禁ずるとか、書いてあったりする。武術の起請文というのは今日でいう入門願書のようなものである。通例では熊野牛王符と呼ばれる神札の裏面に誓約文を書いて、神仏に誓うのである。そして、もし誓約を破った場合、熊野三山の神使(しんし)であるカラスが死んで、破った本人も血を吐いて死に、地獄に落ちると信じられていた。武術を習うのも命がけだったわけである。

丸川謙二氏
丸川謙二氏

東京大道館で本部朝基に10年間師事した故・丸川謙二氏によると、本部朝基が本当に親身になって教えてくれるようになったのは最後の1年だけで、それまでの9年間はなかなか秘伝のような技は教えてくれなかったと述懐されていた。また、技の写真などを撮らせるときも、本当の技が盗まれないように普段とはちょっと形を変えて撮影させていたそうである。だから、本部朝基が残した写真には時々ちょっとした「嘘」がある。直弟子ならその嘘は見抜けるが、第三者がそれを見抜くのはなかなか難しいと思われる。

 

本部御殿手の上原清吉前宗家も、秘伝ということにはやかましかった。上原前宗家は昭和45年に本部御殿手を一般に公開したが、この「公開」の意味は入門の門戸を拡げた、という意味であって、技の自由な伝授や公開を許可したわけではなかった。だから、教えられた技を宗家に許可なく伝授することは禁じられていて、そういう弟子がいると猛然と抗議されていた。

 

例えば、ある弟子がアメリカで取手を教えたということで上原先生が抗議した際には、その弟子から釈明の「ビデオレター」が送られてきて、その中で「これは上原先生から教わった取手ではありません。私が発明した技です」と苦しい言い訳をしていたそうである。取手が本土で知られるようになったのは1990年代以降であるが、実はアメリカでは1980年代前半からこうした元弟子達がトゥイディとかトゥイテとかいう名称で、取手を広めていたのである。こうした元弟子達は上原先生の抗議を恐れて、その伝系を隠したり技をちょっと「アレンジ」して教えたりしていた。それでもアメリカでは結構広まっていて、件のビデオレターの人物もアメリカで成功を収めた一人である。

 

某氏に出された破門通告書、平成4年
某氏に出された破門通告書、平成4年

もちろん、本部御殿手の書籍や映像を宗家の許可なしに出版するのは厳禁であった。例えば、ある弟子が本部御殿手の本を出版した際には、破門にして称号・段位をすべて剥奪し、流派名やマークの使用を一切禁止するという厳しい処分が下された。この時の破門通告書は弁護士事務所を通じて作成され、その写しは現宗家も上原先生より送られて所持している。


本部御殿手は「琉球王家秘伝武術」であるから、秘伝技の許可のない公開は、流派の本質と存続を脅かしかねない。この人物は他にも大学教授の詐称など、様々な問題を起こしていた。上原先生が自著を出版したきっかけも、実はこの書籍によって間違った本部御殿手像が世間に広まるのを防止するのが目的の一つだったのである。

 

思い返すと、上原先生はこういう心ない弟子達によって晩年は心労を重ねていたように思う。上原先生はよく「間違いのない人物にしか本部御殿手は教えられない」と言っていた。それは誠実で嘘偽りがなく、技を悪用したり、みだりに公開したりしない人物、という意味である。上原先生が80歳近くになってから制定した「琉球王家秘伝本部御殿手極意武術五ヶ条」の最後の条文にも「心素直なれば求むるものすべて武の心に通ず」「邪を捨てて修練に励むことこれを虚心なる『武』の道という」と記されている。

 

この制定当時、上原先生はある弟子の技の公開で大変心を痛めていた。以前は気づかなかったが、いまは何となく当時の上原先生の心境の苦しさがこれらの文章から伝わってくるようである。