日本傳流兵法本部拳法について

戦前

大正時代の本部流(大阪、1926)
大正時代の本部流(大阪、1926)

日本傳流兵法本部拳法(にほんでんりゅうへいほうもとぶけんぽう)は、拳聖・本部朝基先生が大正11(1922)年に開いた日本で最も歴史と由緒を誇る空手流派の一つです1)。一般には本部流唐手術、本部流空手道などとして知られています。

 

朝基先生は、12歳の時、首里手の大家・糸洲安恒先生をその邸宅に招いて、正式に空手を師事したのを皮切りに、琉球王族という恵まれた立場からおよそ当時の名のある空手家にことごとく師事しました。天性の才能と膨大な稽古、そして当時の空手家としては異例の数々の「掛け試し」の実戦の結果、24、5歳の頃にはすでに沖縄一の空手家として名高く、「本部のサールー」といえば、三尺の童子ですらその名を知っていると言われるほど、有名な存在になりました。

 

本土に移り住んでからも、朝基先生は京都で外国人ボクサーを一撃で倒すなど、空手の真価を、圧倒的な強さでもって証明しました。当時、まだ本土では一部の武道家にしか知られていなかった空手は、朝基先生の活躍によって国民の多くが知るところとなったのです。朝基先生のもとには、空手についての問い合わせ、指導依頼などが殺到しました。この年、大阪此花区四貫島(しかんじま)に道場を開設、自らの流派を日本傳流兵法本部拳法(通称・本部流)と命名し、また唐手術普及会を結成して本土での空手指導を始められました。

「日本(傳流)兵法本部拳法正傳指南」の署名
「日本(傳流)兵法本部拳法正傳指南」の署名

大正15(1926)年5月には、『沖縄拳法唐手術組手編』を発行し、自らモデルとなって長年培った組手秘術の一端を写真付きで公開し、本土において空手の紹介・普及に尽力しました。『沖縄拳法唐手術組手編』は、空手史上、最古の組手書として国内はもとより海外でも非常に高い評価を受けています。

 

昭和4(1929)年、大阪から東京へ拠点を移し、東洋大学唐手部師範や鉄道省唐手師範などを務めました。また、東京に「大道館」道場を設立し、多くの弟子を育てました。昭和7(1932)年には、二冊目の著書『私の唐手術』を出版しました。そして、 昭和16(1941)年、東京の大道館を閉鎖して一旦大阪へ戻られた後、翌年、沖縄へ帰郷されました。

 

1) 本部朝基が大阪で道場を開いた年は、大正10(1921)年、大正12(1923)年など諸説があるが、当流派では、直弟子・東恩納亀助氏が書いた最古の記録である大正11年説に従う。東恩納亀助「唐手の話」『琉球新報』昭和10年12月10 - 18日参照。

戦後

本部朝正宗家
本部朝正宗家

本部朝正(もとぶちょうせい)第二代宗家は、大正14年7月24日、父朝基、母ナビの三男(戸籍上は次男)として出生しました。母ナビ(朝基の正妻、明治26-昭和48)は、15世紀の琉球の英雄・護佐丸1)の子孫で、旧首里貴族・盛島殿内(もりしまどぅんち)の盛島盛祐五女でした。

 

朝正宗家は、幼少の頃より父や兄から空手の手ほどきを受けたあと、昭和13年から父が帰郷する昭和17年まで、正式に父について空手を師事しました。戦時中に父、次兄・朝礎(戸籍上長男)を相次いで亡くしたことから、昭和19年、家督相続して朝基家を継ぎました。戦後は警察官として奉職するかたわら、昭和23年頃から地元の寺の御堂などを借りて、空手の指導を始めました。

昭和55(1980)年
昭和55(1980)年

昭和52年には、朝基先生直系の流れを汲む埼玉・春風館や群馬・大道館など各地の道場と合流して、日本空手道本部会を結成して会長に就任し、本格的に本部流の再興に乗り出しました。また、父の直弟子の丸川謙二先生や中田瑞彦先生方を訪ね、「本部朝基先生・語録」をはじめとした証言の聞き取り調査や資料の発掘・収集なども、会の活動の一環として行ってきました。これらの研究成果は、日本武道学会などを通じて学術研究として発表してきています。

 

また、朝正宗家は、昭和51年に叔父・朝勇師の直弟子・上原清吉先生に出会い、本部御殿手も継承することになりました。日本傳流兵法本部拳法は、今年で設立90周年を迎え、朝基先生直伝の技、術理、稽古法を大切にし、沖縄古伝の空手を今日まで正しく継承するよう努めています。

 

1) 中城按司護佐丸盛春 (なかぐすくあじごさまるせいしゅん、唐名・毛国鼎、?-1458)は、15世紀に活躍した琉球の英雄。琉球統一を成し遂げた尚巴志王の部将。