本部流と本部御殿手

2022年11月16日

『琉球新報』昭和15年8月17日
『琉球新報』昭和15年8月17日

文献に現れる「本部流」表記の最古の事例は、昭和15(1940)年の「空手道の先輩・本部朝基翁」と題された琉球新報の記事である。この年東京で本部朝基の後援会が発足した。発起人には小西康裕氏(神道自然流)やボクサー・堀口恒男氏(ピストン堀口)等が名を連ねた。この記事の中に「本部流實戦護身術」の流派名が見える。

 

弟子の丸川謙二氏によると、正式な流派名は「日本傳流兵法本部拳法」だが、通称として普段、本部朝基は本部流と称していたらしい。父(朝基)の跡を継いだ宗家(本部朝正)も、今日にいたるまで日本傳流兵法本部拳法と本部流の名称を使用し続けている。

 

左の写真:本部流大道館前にて、大阪府貝塚市、昭和54(1979)年。

 

人物:左から與那城薫(本部朝勇曾孫)、本部澄子(本部朝勇孫)、上原清吉、本部晶子(朝正妻)。

 

このように本土では、戦前から本部朝基の空手流派を本部流と呼んできた。

 

 

 

一方、沖縄では昭和36(1961)年、上原清吉が本部御殿伝来の武術体系のうち、突き、蹴り、型といった空手部門を本部流と称し、本部流古武術協会を設立した。確認できる最古の事例は、昭和38(1963)年に万座毛で撮影した写真で、上原先生の帯に「本部流手(もとぶりゅうてぃー)」の刺繍がある。「手」は武術の意味である。

 

右の写真:演武・上原清吉、沖縄県恩納村万座毛、昭和38年。

 

 

 

 

「琉球王家秘伝武術本部御殿手継承者並びに達士8段の免状」、昭和51(1976)年6月10日
「琉球王家秘伝武術本部御殿手継承者並びに達士8段の免状」、昭和51(1976)年6月10日

上原先生は昭和45(1970)年に、取手(柔の手)や武器術の部門を本部御殿手と称して公開し、本部御殿手古武術協会を設立した。しかし、空手部門の本部流の表記も引き続き使用し、また組織としての本部流古武術協会も存続した。

 

左の免状は本部御殿手継承者として、上原先生から宗家に昭和51年に授与されたものであるが、肩書の欄に「本部御殿手古武術協会長」と「本部流古武術協会総本部長」の2つの組織とその長の名称が併記されているのがわかる。

 

上原先生は亡くなるまで、本部朝勇から教わった武術のうち、空手部門は「本部流」、その上の部門は「本部御殿手」と区別して使い続けた。それゆえ、沖縄県空手道連盟には本部流として加盟し、門人たちも空手の試合に出場する際は本部流として出場させた。

 

右の写真:「沖縄県空手道連盟役員名簿」。「顧問、上原清吉、本部流」の表記が見える。『創立十周年記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、より。

 

このように、本土では本部朝基の空手を本部流、沖縄では本部朝勇の空手部門を本部流と呼称し続けてきたのである。そして平成15(2003)年に本部朝正が本部拳法の宗家に加えて、本部御殿手の宗家も兼任するようになったため、両流派の総称としても「本部流」を使用してきている。その際は、本部流(日本傳流兵法本部拳法・本部御殿手)として、本部流の中に両流派が包括されていることを示している。

 

残念ながら上記のような歴史的経緯が正しく理解されず、中には間違った知識から事実と異なる主張をする人たちがいる。本部朝正はそれぞれの流派名の歴史性を大切にし、宗家としての立場から正式名称、通称、並びに総称として、本部流、本部御殿手、本部拳法を適切に使い分けているのである。