踊り子だった唐手家たち

本部直樹

渡嘉敷守良の「諸屯」の足使いの解説写真。女踊りも戦前まではもっぱら男性が踊った。
渡嘉敷守良の「諸屯」の足使いの解説写真。女踊りも戦前まではもっぱら男性が踊った。

今日、琉球舞踊の主な担い手は女性ですが、琉球王国時代は男性だけで踊りました。女踊りも男性が女形として踊りました。冊封使の記録にも踊り手は「貴家の子弟」(夏子陽、1606年)、「朝臣の子弟」(汪楫、1683年)とあります。具体的には、首里の御殿殿内(うどうん、とぅんち)と呼ばれた大名家出身の10代の男子たちでした。
例えば、戌の御冠船(1838年)の時の記録を見ると、組踊や女踊りを踊った人数十名のうち、そのほとんどは大名家の男子でした。女性が琉球舞踊を踊るようになったのは、明治以降、とりわけ戦後からです。      

 

御冠船踊りの参加者の中には、後年唐手家として知られる人物もいます。例えば本部朝基『私の唐手術』の「田舎相撲に勝った豊見城里之子」の章で紹介されている豊見城親方盛綱(1829-93)も、戌の御冠船の時に踊り手をつとめています。彼は、さらに1839年の江戸上りの際にも「楽童子」として江戸に上っています。楽童子とは、江戸城や江戸薩摩屋敷で踊りや音楽を披露する専門の役職です。

 

遠山寛賢先生(1888-1966)に「知花公相君」を伝授した知花朝章(1847-1927)も、尚泰王の冊封式典、いわゆる「寅の御冠船」(1866年)の時に御冠船踊りを踊った一人でした。小林流の開祖・知花朝信先生(1885-1969)の本家当主でもあります。知花朝章は後にこの時の様子を「冠船渡来と踊」と題して口述しています。

 

首里の貴族たちは、どうしてこれほど琉球舞踊に熱心だったのでしょうか。確かに日本でも、織田信長が幸若舞『敦盛』を舞ったように、特権階級の人々が「趣味」として舞踊を愛好する例はありました。しかし、そうは言っても舞踊の担い手は、それを職業とする人々、つまりプロの舞踊家が中心でした。そして、彼らは平安鎌倉期の白拍子のように、しばしば賤しい身分とされる人々ですらありました。

知花朝章
知花朝章

この点について、知花朝章は次のように述べています。「(御冠船踊りを)演じた人は、その勲功により、位を賜り、あるいは扶持(ふち)を賜ったもんだ。それで歴々の子弟も、勲功を建てるというので、志願者が多かった」。――つまり、琉球舞踊は出世への近道だったわけです。

 

琉球王国は小さく貧しい国でした。特に薩摩侵攻以降は財政が困窮しました。ところが、士族は人口の四分の一を占めています。そのうち首里城で勤めることができる人はごくわずかです。それゆえ、御殿殿内の子弟といえども、努力しなければ没落する運命にありました。そうした中で、冊封使の前で琉球舞踊を踊るということは、数少ない立身出世のチャンスだったわけです。つまり、琉球舞踊が踊れるかどうかは「趣味」の問題ではなく、「出世」や「生活」が絡んだ問題であり、もっと言えば一族全体の運命を左右する問題ですらありました。当時は士族の当主は、兄弟家族を含めてたくさんの親族を養っていたからです。また、戦前を代表する舞踊家・渡嘉敷守良(1880-1953)も自叙伝の中で次のように述べています。

 

「昔、我が琉球王国時代には、各間切、地頭職、按司、親方部というような、歴々の御殿、殿内に子供の産まれた場合には、親戚や隣近所の士たちが集まり、組踊本によってあらかじめ人物の役割を決め、それに歌と三味線を交えて本式に興じ合い徹宵したということであります。なぜにそうしたかというと、第一産婦にきかせて、今までの苦慮を慰安するため、第二には、主上御一代一度の盛典に興行される冠船踊の役者になる下地を、それとなく、子供達に仕付ける意図があったそうであります」。

島袋光裕先生
島袋光裕先生

つまり、現代の教育熱心な親が将来一流大学に入れるようにと、我が子に英会話のテープを聴かせるように、昔の琉球貴族たちは組踊の台本を我が子に読んで聞かせていたわけです。

 

本部御殿でも、本部朝勇は琉球舞踊に熱心で、その舞い姿はまるで天女のようだったと上原先生は著書で述べていますし、本部朝基も実は琉球舞踊が大変好きでした。島袋光裕先生(1893-1987)によると、戦前本部朝基はよく踊りを見に芝居小屋に来ていて、楽屋裏にも熱心に顔を出していたそうです。また、舞台で演じる武術の振り付けなどもよく指導していたそうです。島袋先生によれば、戦前の琉球舞踊の発展に果たした本部朝基の功績は大変大きかったそうです(宮城鷹夫談)。

 

そういえば、本部朝勇、朝基の姿勢がいいのも、子供の頃に御冠船踊りを仕込まれたからだったかもれません。渡嘉敷守良によれば、昔は背中が曲がっていると、踊りの師匠は弟子の背中に六尺棒をくくりつけて矯正したそうです。上原先生も、御殿手独特の立ち方ができるように、膝に棒をくくりつけられて稽古したそうですが、こうした稽古法も琉球舞踊の昔の稽古法の延長だったのかもしれません。

参考資料:

伊波普猷『伊波普猷全集(第三巻)』平凡社、1974年。

板谷徹編『尚育王代における琉球芸能の環境と芸態復元の研究』沖縄県立芸術大学音楽学部板谷研究室、2003年。

渡嘉敷守良「ある俳優の記録」(三隅治雄『沖縄の芸能』邦楽と舞踊出版部、1969年、所収)。

上原清吉『武の舞』BABジャパン出版局、1995年。

宮城鷹夫談(元沖縄タイムス記者、本部御殿手師範。筆者聞き取り)。