武士・本部朝基翁に「実戦談」を聴く!

『琉球新報』昭和11年11月9、10、11日

沖縄県公文書館蔵(湧川清栄文書) 

青年唐手家主催・座談会(一)

唐手熱が県内外に高潮している折りがら、「唐手はどこまでも空論を廃して、実際的でなければならぬ」と主張する那覇・首里の青年武術家達が集って、七日午後八時から辻上野楼で、唐手実戦家ナンバーワン本部朝基翁を囲んで、「翁の実戦と体験談」を聞く座談会が催された。

 

集まった人々は、那覇署の高嶺朝計 長嶺将真 上江洲安義 首里の島袋太郎 金武良章 垣花の宮里両吉 県学務課の柳澤七郎の各氏。

 

六十の坂を越した老人とも思えぬ頑丈な体躯を、どっしりと構えた本部翁を囲んで、同好の士が水入らずの唐手武術談だけに、話もはずんで果ては本部翁自ら立って、若い者を相手に型や実際の場合の実演に、壮者をしのぐばかり……。

 

以下は、質問に応じて語られた本部翁の興味津々たる「若き頃の回顧や実戦談」、昔の先生方の逸話等である。

ナイハンチの昔と今の差違

私達が十二、三の頃に教えられたのと、今とは拳の握り方が違っている。昔は平手だった。突き(拳)は、現在は前方に水流しといって下にさがっているが、昔はそんな手はなかった。真っすぐに、かえって上にあがる心持ちだ突くものだ。これは首里の松村の流れがほんとであると思っている。

 

佐久間先生のと松村先生のは同じ手(型)であった。昔の型は突いて拳を出して引く時、腋下に引くことを習っていたが、今のは突いて拳を出して引く時、脇腹に持ってくる。これは実戦には決して役立たない。引く時力を入れるのが本当だが、いまのように拳を突く時に力を入れるというのは、私には不思議でならぬ。突く時は八分でも、引く力は十分でありたい。

昔の唐手の先生方の話

私は首里の松村や佐久間という名高い人に教わったが、時々は泊の松茂良 国頭親雲上、糸洲、久茂地の山原国吉などから稽古したが、そのうちでも私が心から気持ちが合った人は泊の松茂良と佐久間で、稽古の時にはうんと殴られたりしたが、佐久間先生は賞めたり叱ったりしてよく教えてもらった。

 

あの人との入り組で、私は実力がついて来て、お互い友達は子供扱いにしたほどである。泊の松茂良は、私達より一寸くらいも高く、五尺四寸くらいで体重も百二十斤くらい、全く甕(かめ)のようだった。糸洲の手とは全然異っていた。佐久間もちょうど松茂良と似て、力のあることでは本当の武士だった。

今の武術家と昔の武術家

今の若武士たちは、昔われわれの先生方と比較すると、今の武士は武術家と言われるくらいに修業した者はいなかろう。まあ、稽古するくらいにしか考えられない。私に言わせると、現今実際の武者と言われるのはいないね。

青年唐手家主催・座談会(二)

昔の武士の修練ぶり!

泊の松茂良などは、月夜に潟原(かたばる)に出て、「まだまだ」と足腰の立たなくなるまで稽古し、夜の明けるころ家に帰るや、家へもあがることができぬくらい、へとへとになって縁側に寝てしまうくらい猛烈に修練したもので、修業は型も組手も同時にやったものだ。

 

昔の武術者は何を目標にしていたかと言うと、昔は手を習うにも隠れて人に見られぬように、こっそりと先生の家に通ったもので、それも夜の明けきらぬ暗いうちに行き、巻藁を稽古するにも音を立てないようにしたものだ。棒の稽古などもカチカチ音たてぬように藁を巻いてやったものである。

十円賭けて受け手で勝った話

兄・朝勇。泊の松茂良にも師事していた事実は、従来の空手史では知られていない。当時のあらゆる武芸に通暁していた。
兄・朝勇。泊の松茂良にも師事していた事実は、従来の空手史では知られていない。当時のあらゆる武芸に通暁していた。

それは私が二十歳の頃のこと、亀谷とか屋部、それに私の兄などが泊の松茂良先生のもとへ教えを受けに行った時、先生から「受け手について」質問されたところ、彼らは一週間も頭を悩ましてなお解らぬのを聞いたので、私が「そんなことくらい朝飯前だ、自分なら直ぐできる」と言ったら、兄貴達大いに憤慨し、「貴様にできるなら賭けしよう」ということになり、十円賭けで、一緒に松茂良先生の所へ行き、先生に「この前、兄貴達に出された受け手は私が出来ますがやってよいか」と申し出て、その型を軽く受けたところ、松茂良もびっくりし、「この手は誰にも教えなかったが、どうして分かったか、君の先生は誰か」と言われたので、私は「糸洲です」と答えると、「糸洲は自分もよく知っている」と言われ、「じゃあ、お前糸洲を連れて来れるか」と言うので、「できます」と答えて、糸洲先生を松茂良の所へ案内したら、「これは将来見込みがあるから一緒に仕込んでやろう」と話され、その後、私はいろいろと教えを受けたが、糸洲は「松茂良ほどの武士が真実(まこと)の武士だ」と、口ぐせのように賞められていた。

 

そういうことで、兄貴達との賭けは私が勝って、十円儲けたことがある。ワッハハ……実際、実戦には左で受けて右で入れ、または右で受けて左で入れるという手はない。受けた手が同時にパッと攻撃に変じる手でなければいけない。今の組手なんかは、空手の型をそのまま取ってやっているが、あれでは実戦には何の役にもたたない。

松茂良へ一本歯血出させた話

金武良仁(1873-1936)。琉球古典音楽の巨匠。旧首里貴族・金武殿内の当主。本部朝基の友人。
金武良仁(1873-1936)。琉球古典音楽の巨匠。旧首里貴族・金武殿内の当主。本部朝基の友人。

金武良章氏:私の父(良仁氏)がよく「本部さんは武士だ」と話されましたが、松茂良が「自分の所に本部という人が来て、入り組の練習をした時、私の顔に一手入ったことがあった。年の若い者としては非常に武才がある」と賞めていたそうですが、この話は本当ですか……との質問に、

 

それは私が19の頃、仮屋の玉城という角力(すもう)取りと一緒に、松茂良の所に行って、入り組みの稽古を受けた時、先生が二番目に入れた手を受け外し、そのまま顔に当て、先生は歯血を出したので、私は「先生、失礼しました」といって一歩退ったら、先生は「そのまま構はぬからどしどし入れて来い」と言われたので、私は非常に感激し、一層発奮して修練したことは事実である。

 

このことは誰にも話さなかったが、屋部も聞いていたと言っていた。首里久場川に亀谷という武士がいたが、亀谷は私よりも十も年上で、力も強く、私なんか二つの手でようやく受けるくらいだったので、18,9の頃から21,2の頃で、よく彼にいじめられていたが、一生懸命修練したため、23くらいには、もう亀谷も私にはどうすることもできぬほどになっていた。

青年唐手家主催・座談会(三)

覆面で友達をからかった話

屋部憲通(1866-1937)。松村宗棍の愛弟子。朝基の一番の親友だった。
屋部憲通(1866-1937)。松村宗棍の愛弟子。朝基の一番の親友だった。

一度こんなことがあった。花城やイーフの力(ちから)高江洌、三ヶの中村渠(なかんだかり)、屋部などの連中が揃って辻のシッタイ門の屋部の馴染の家へ入ろうとするのに出会った私は、彼らに悟られぬよう覆面(コーガキー)して、力高江洌に割り込んで行ったので、彼が向かってきたのを、二回とも払って突いたので、彼はフラフラになりタヂタヂとなったが、花城や屋部など彼の連中は、そのさまを見ながら高江洌に加勢しようともせず奥に入ろうとしたので、自分は手を叩いて笑ひながら覆面を取ったので、彼らも初めて自分ということを知り、花城や屋部は「高江洌をあれくらいタヂタヂさせるのは、本部よりほかにいないと思っていたら、案の定だった」と、一緒に笑って一杯やったよ。

那覇の武士を走らせた話

これは那覇の武士で、潟原の地頭代の奥浜というのと会った話であるが、私が三十歳の時、屋部と二人、辻の屋部の女郎屋で遊んでの帰り、上の角で那覇の武士達に取りかこまれたが、相手が飛び込んで来たので後へ退いて、一人をパッとやっつけたのでそのまま倒れたので、その勢いに怖れたのか、誰も向かって来ず皆逃げ出したことがあった。

棒組に囲まれ村芝居の騒動

板良敷の翁(タンメー)達と一緒に、西原小那覇の村遊びを見物に行った時だった。後から棒組の者が何か自分に言っているのを知らないでいると、棒でいきなり手を打たれた拍子に睾丸を打ったので、うんとこらえてしゃがんでいたが、痛みが去ると同時にパッと後向きざまに相手をやっつけたところ、さあ大変だ。

 

およそ七、八十人の棒組が、自分達をおっ取り囲んで掛かってきた。一緒に行った人達は、真っ先に避難したので、あとに残った自分は相手と実戦しながら石垣を跳び越えて、幸い囲みを破って帰ってきたが、さあその時の騒動で、「本部はもう殺されている」と思って、首里の連中は、提灯つけて探しに出かけて来るのと出会ったよ。

 

そのときは親達もおられたので、親に心配かけてはすまぬと思い、実戦でしわくちゃになった着物を直して、両の袂に砂なんか入れて、よれよれになっているのを直して、「そんな事はありませんでした」と親達に申したが、えらい騒ぎだったよ。

外人拳闘家と実戦して倒した話

本部朝基が倒した相手と言われるジョン・ケンテル。ロシア人と言われるが、正確にはエストニア人。写真はCharles C. Goodin氏提供。
本部朝基が倒した相手と言われるジョン・ケンテル。ロシア人と言われるが、正確にはエストニア人。写真はCharles C. Goodin氏提供。

それは大正十二年頃だったかな。京都でジョン何とかいう、外人拳闘家が実演しているのを見物に行ったが、最初は柔道家と試合していたが、拳闘の方はよほど平ったくなって試合しているので、「これは素人だなあ」と思い勝つか負けるか賭けして、自分も試合を申込んだ訳さ。

 

五十歳を越してからの事で、その日は試合は出来ず、翌日改めて試合に出たところ、私がグローブもせず素手で相手すると言ったら、相手の拳闘家は私より背も大きいので随分侮り、私の耳を引っ張ったり、鼻をつまんだり、頬をひねったりして子供扱いするんだ。

 

で、最初の回は相手も軽くあしらって一回休み、二回目の試合に立った時、自分はひょいっと考えた。「こんな外人に負けると空手の恥である上、沖縄の恥だ。一つ相手をうんとやっつけてやろう」と決心、奮然と攻勢に出て向こうが力でブッとやって来た刹那、相手のこめかみを一つうんとやっつけたら、その場に見事ぶっ倒れてしまった。

 

さあ見物人が熱狂する。私の立っている所目がけて、座布団も投げる、煙草入れも投げる、金着も投げて拍手喝采だ。何しろ六尺くらいもある拳闘家を空手でやっつけたというので大変だった。

 

その時、私は平手で張ったなどと書き立てられたが、平手なんかで相手するものか。パッと拳を突いたのが早いので、見物人は平手だと思っていたらしい。空手の得意は軟らかくやって、隙を見てパッと当てるのが空手の実戦だ。(終り)

 「幻の『空手座談会』発見 逸話、武勇伝多彩に」『琉球新報』 2006年9月23日。