本部朝基の沖縄帰郷年


以前、アメリカのある武道雑誌の編集者から「現存する戦前の那覇市の公簿(the Naha City public records)によれば、本部朝基は1940(昭和15)年から亡くなる1944(昭和19)年まで、那覇市に居住していた」という内容の電子メールを受け取ったことがあった。

 

この編集者の言わんとすることは、本部朝基は昭和17(1942)年に沖縄に帰郷した、という本部流がホームページ等に記載している内容は誤りである、ということらしかった。彼はそれまで本部朝基に関する記事を自らが編集する武道雑誌によく掲載してくれていたので、いきなりこうしたメールを受け取って面食らった。と同時に、本部流は本部朝基の沖縄帰郷年について嘘を語っているのではないかという見方が一部にあるらしいということに気づいた。これについていつか詳細な記事を書きたいと思っていたが、それから数年が過ぎ、そのままにしていたので、今回これについて書いてみたいと思う。

 

まずこの編集者の言う、居住を証明する「公簿(公的記録)」が何を意味するのかは明確ではないが、日本では通常、戸籍や住民票がこれに該当する。戸籍には本籍地、住民票には現住所(実際の居住地)が記されている。このうち、住民票は昭和27(1952)年の住民登録法施行以降のものであり、戦前は存在していない。その代わり、戦前は寄留簿という住民票に似た制度があった。しかし、これも昭和27年、住民登録法の施行とともに廃止となった。ちなみに、住民票の保存期間は5年であるが、寄留簿も制度廃止に伴い廃棄されたので、戦前の寄留簿も原則として存在していない。

本部朝基戸籍謄本、首里市発行、昭和16年
本部朝基戸籍謄本、首里市発行、昭和16年

さて、戦前の那覇市の戸籍や寄留簿であるが、これらは沖縄戦により昭和20年にすべて消失している。周知の通り、沖縄は戦後アメリカの施政下にあったので、当時は日本本土の立法とは無関係であるが、一部の離島を除いて戸籍や寄留簿はすべて戦争で失われてしまったのである。ただし本部朝基の戸籍謄本は、戦前本部朝正が沖縄より取り寄せたものが残っている。しかし、一般に戸籍謄本には本籍地が記載されており、(本籍地と異なる)実際の居住地は記載されていないので、この戸籍謄本にも当然本部朝基の昭和15-19年の居住地は記載されていない(注)。もし戦前の寄留簿が現存していれば、その期間の居住地を知ることはできるが、上記の通り那覇市の寄留簿は戦災により現存していない。念のため、那覇市を含め、本部朝基が居住していた大阪や東京の役所にも問い合わせたが、やはり戦前の寄留簿はいずれも保管されていないとの回答であった。

 

注: 戸籍には本籍地以外、出生地や死亡地も記載されるが、本部朝基のこの戸籍謄本(昭和16年)には記載がない。出生は沖縄における戸籍制度開始以前、死亡はこの謄本取得以降の出来事であるので、記載がないのである。出生年月日の記載はある。

 

昭和29(1954)年7月19日、当時の首里市役所戸籍係より戸籍再製を要請する手紙が大阪の本部朝正宛に届いた。それによると、首里市(同年9月1日に那覇市と合併)の戸籍は、昭和20年5月1日に戦災で「滅失」したので戸籍を再製する。ついては再製のための申請手続きをしてほしい、再製の届け出期間は同年5月31日までであるが遠隔地(大阪)ゆえ、期間は猶予するので至急届け出をしてほしいとの内容であった。これに応じて、本部朝正は上記の戦前の戸籍謄本の写しを添えた手紙を大阪から沖縄に送り、戸籍を再製した。これの除籍簿(死後に保管される戸籍)が現在でも那覇市にあるはずであるが、除籍謄本(除籍簿の写し)を申請できるのは原則として直系親族しか不可能であるから第三者は入手できない。仮に件の編集者が何らかの方法でこれを入手できたとしても、除籍謄本にはやはり本籍地しか記載されていないので、戦前の居住地までは分からない。念のため、不動産登記についても那覇地方法務局に問い合わせたが、戦前の帳簿はないという。つまり、那覇市には本部朝基の戦前の居住地を証明する何らの公簿も存在していないのである。

本部朝基から本部朝正宛手紙、昭和15年2月2日
本部朝基から本部朝正宛手紙、昭和15年2月2日

さて、昭和15年以降の本部朝基の居住地を証明する公簿は存在しないが、記録そのものはいくつか存在する。まず昭和15年2月2日消印の本部朝基から本部朝正宛の手紙が現存している。差し出し住所は「東京市牛込区原町一ノ四九」である。現在の新宿区原町である。次に東京で本部朝基後援会が発足したという「空手道の先輩・本部朝基翁」と題する『琉球新報』昭和15年8月17日の記事が沖縄県立図書館に所蔵されている。これらから本部朝基は昭和15年にはまだ東京にいたことが確認できる。

 

次に丸川謙二著「我が師 本部朝基先生を語る」(昭和57年)という小文に、昭和16年秋、東京大道館を閉鎖という記述がある。丸川氏は本部朝基の高弟である。この小文は山田辰雄氏の弟子の小沼保氏が丸川氏の許可を得て、『本部朝基正伝―琉球拳法空手術達人(増補版)』(壮神社、2000年)に収録している。この本は現在絶版であるが、国会図書館や沖縄県立図書館にも所蔵されているので、コピーは入手可能である。 

 

 大道館閉鎖後、本部朝基は大阪に戻って家族とともに数ヶ月を過ごしている。昭和16年12月13日に息子の本部朝正に日本傳流兵法本部拳法の免状を出していてこれが現存している。本部朝基の直弟子の方の中には本部朝基は流派名を名乗らなかったと書いている人もいるが、免状には流派名が記載されているので、免状をもらっていたならこの流派名を知っているはずである。ちなみに、本部朝基が弟子に出した免状はこれを含めて4枚が現存しており、そのコピーはいずれも本部家で保管している。

昭和17年6月20日、鳥取高等農業学校生徒とともに。朝基左隣は松森正躬氏。
昭和17年6月20日、鳥取高等農業学校生徒とともに。朝基左隣は松森正躬氏。

さて、本部朝基は昭和17(1942) 年5、6月頃まで大阪に滞在し、その後、鳥取県在住の弟子の松森正躬氏を訪ねて、鳥取に1ヶ月間ほど滞在している。そこで、本部朝基は旧・鳥取高等農業学校(1920-1952)の生徒に唐手を指導している。この鳥取滞在中の6月20日に撮影された写真が現存している。これはこの学校の生徒と共に写したものである。この時、本部朝基は胃潰瘍を患っていたらしく、ずいぶんとやせ衰えている。この写真が現存する本部朝基最期の写真である。それゆえ、本部朝基が沖縄に帰郷したのはこれ以降しかあり得ぬのである。

 

なお、本部朝基は昭和11(1936)年秋から昭和12(1937)年にかけて、1年余り沖縄に帰郷している。この間、琉球新報主催の「空手大家の座談会」(昭和11年10月)や「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」(同年11月)等の座談会に出席している。首里城再建の考証にも携わった歴史家の真栄平房敬氏に以前伺った話によると、本部朝基は、翌昭和12年、いまのモノレールの牧志駅近くの国際通り沿い、牧志ウガン(拝所)近くに道場を開設していたという。通りに面した家を借りて、「本部朝基唐手研究所」という幅4寸ほどの看板を掲げていた。この道場は1年ほどで閉鎖されて、その後は再び本土に戻ったそうである。その後は大阪と東京を交互に半年ごと滞在する生活が昭和17年まで続いた。 

話を元に戻す。アメリカの編集者が書いていた公簿もしくは公的記録とは何だったのであろうか。彼はこちらの質問には答えなかったが、私は長嶺将真氏の『史実と伝統を守る沖縄の空手道』(新人物往来社、昭和50年)か『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』(新人物往来社、昭和61年)あたりがソースなのではないかと考えている。これらの著書には本部朝基の評伝が掲載されており、また翻訳されて英語版も出版されている。

 

これらの本の中に、以下のような文章がある。

 

「(本部先生は)昭和14年春にも再び帰省されたが、おりしも時局は支那事変から大東亜戦争へと戦火が拡大された頃にさしかかっていたので、『もう年も年だし、死ぬなら生まれた故郷で死んだ方がよかろう』などと先生はおっしゃって沖縄にとどまることになった。そして昭和19年(1944)8月、那覇市崇元寺にあった私の住まいの隣家の借家で、74才の生涯をもって永眠なされたのである」(『史実と伝統を守る沖縄の空手道』75頁)

 

上記文章は、もう一冊の本にも同文が再掲されている。この文章を信じるならば、本部朝基は昭和14年春以降は本土に戻らなかったことになる。

 

さて、上記引用文の中に本部朝基の死亡年月は昭和19年8月と書いてあるが、これは同年4月の誤りである。また他の箇所では、生年月を明治4年2月を書いてあるが、これも明治3年4月の誤りである。他にも、本部朝基の父を「本部朝茂」としているが、父の名は朝真で朝茂は甥(兄・朝勇次男)である。これらは親族が見ればすぐに気づく誤りである。長嶺氏は戦災で資料を失い、記憶を頼りに苦労しながらこの評伝を書かれたので、こうした誤記が生じたのかと推察する。

謝花清人「実戦空手の先駆者 武勇・本部朝基」
謝花清人「実戦空手の先駆者 武勇・本部朝基」

長嶺氏の文章はもちろん「公的記録」ではないが、戦後初めて出版された本部朝基のまとまった評伝であり、その後本部朝基について書かれた記事は、実はたいてい長嶺氏の著書を参考にしている。それゆえ、こうした年代の誤記も繰り返し様々な記事に転載されている。時には、こうした誤記が他の本部朝基の直弟子のインタビュー記事にも登場することがある。例えば、長嶺氏の最初の著書から3年後に出版された、月刊『青い海』(第8巻2号、1978年)に掲載された謝花清人「実戦空手の先駆者 武勇・本部朝基」である。この記事は本部朝基に師事した名嘉真朝増氏のインタビューをもとにした記事であるが、長嶺氏の著書を参考にして執筆したと思われる箇所もある。例えば、明治4年生まれの誤記がそのまま転載されている。また、この記事に掲載されている本部朝基の写真は「長嶺将真氏提供」とあるので、謝花氏は長嶺氏と直接面識があったのかもしれない。

 

実は、このインタビュー記事と同じ年の昭和53(1978)年8月23日、本部朝正は沖縄の上原先生の弟子の案内で、名嘉真朝増氏を訪ねて父に関する逸話を詳細に伺い、それらの記録も取っている。上述の謝花氏の記事では、名嘉真氏は昭和15年頃より沖縄で本部朝基に師事したと書かれているが、名嘉真氏は本部朝正には、実際に師事したのはそれ以前で、昭和14,5年には本部朝基は本土に戻っていて、本部朝基より預かっていた唐手の原稿を本土に送れ、と言われて送った、と語っているのである。

 

名嘉真氏はこの原稿は本部朝基が病気で金に困って売ったのではないか、その後出版されなかったのは残念である、と語っていたそうであるが、謝花氏の記事は本部朝正が聞いたこの話の時期と辻褄が合わない。名嘉真氏の話にはいくつか記憶の混同と思われる箇所があったそうで、それゆえ、名嘉真氏が謝花氏にはそう語った可能性もなくはないがそれにしても同じ年に聞いた話であり、そうした相違は不自然である。謝花氏の記事は他にも種々の疑問点があるが、これについてはまた時期を改めて記事を書きたい。いずれにしろ昭和15年に沖縄で習ったというのは上掲の手紙、新聞記事等からあり得ないのは確かである。

 

ちなみに名嘉真氏は本部朝基に師事した後、知花朝信氏に師事したそうで、部屋には知花氏から授与された「範士9段」の免状が掲げられていた。名嘉真氏によると、毎年那覇の波上宮で空手の大家達が演武する機会があり、本部朝基もナイハンチを演武したことがあったが、それを見た知花朝信氏が「立派な型だ、本部朝基先生ほどのナイハンチを演武する人はいない」と感心していたそうである。

 

話が脱線したので、元に戻す。長嶺将真氏の本部朝基が昭和14年春に沖縄に帰郷してそれ以降本土に戻らなかったという文章は、上掲の現存する、手紙、新聞記事、写真等と矛盾しておりあり得ない。しかし、氏の著書はその後の本部朝基の評伝に数多く引用され、参考にされ、また海外にも翻訳されているので、件のアメリカの編集者はそれらの翻訳のいずれかを読んだのであろう。あるいはそれらの殆どに目を通しているのかもしれない。この編集者は非常に研究熱心な方である。それゆえ、この話はほとんど公的記録と言っても差し支えがないほど、信憑性のある話と彼には信じられたのかもしれない。さらに上掲の手紙、写真は近年まで本部流は公表していないし、新聞記事も最近の発見である。それゆえ、この編集者が間違った情報を信じていたとしても何ら氏の落ち度ではない。そして、こうした情報を本部流としても公表していかない限り、誤りは再生産され続けるので今回記事にした次第である。

 

2015年3月17日