首里手と泊手の相違について

泊の塩田。『ペリー提督日本遠征記』より。
泊の塩田。『ペリー提督日本遠征記』より。

以前から「本部朝基は泊手である」と主張する説があって、一体どこからそのような説が出ているのだろうかと不思議に思ったことがある。本部流がそのような主張をしたことはない。そもそも泊手(とまりて、トゥマイディー)とは、泊村(現・那覇市泊)に住む士族がする手(武術)という意味であるが、本部朝基は首里赤平村の出身、つまり首里士族である。空手における首里手、泊手、那覇手という分類は、それぞれの地域に住む士族がしていた武術というおおまかな地域的分類でしかなく、「流儀」のような厳密な内容による分類ではない。これは本部朝基自身がその著書で指摘していることである。


それでいろいろ調べてみると、この主張は長嶺将真氏(松林流開祖)が自らの恩師の喜屋武朝徳は首里手の中興の祖である松村宗棍の直弟子であり、もう一人の恩師本部朝基は泊手中興の祖である松茂良興作の直弟子であるから、両中興の祖の武徳を後世にとどめるために、両者の「松」の一字をとって松林流(しょうりんりゅう)と名乗ったことに由来するらしいことが判った(『沖縄空手古武道事典』)。――果たしてこの伝系による区別は正確であろうか。


喜屋武朝徳氏は首里儀保村の喜屋武殿内の出身であり、生粋の首里士族である。空手は最初父・朝扶に師事し、16歳(数え)から松村宗棍に2年間師事した。その後、尚泰侯爵の側近を務める父にしたがって上京し9年間東京に滞在した。帰郷後は泊の松茂良興作と親泊親雲上(ぺーちん)に泊手を師事している(喜屋武朝徳「空手の思い出」昭和17年)。以上は本人が語った武歴であるが、このように喜屋武氏は首里手のみならず泊手も修行しており、伝系にしたがって区別するなら、首里手に限定して分類するのは正確ではない。ちなみに、喜屋武氏の本名は本永朝徳であり、本部御殿の門中である本永家に養子入りしている。それゆえ、喜屋武氏の子孫は現在本永姓を名乗っている。


一方、本部朝基は12歳(数え)で糸洲安恒氏(首里手)を本部御殿に招聘して師事し、長じて松村宗棍(首里山川村)、佐久間親雲上(首里儀保村)、泊の松茂良興作の各氏に師事している(本部朝基『私の唐手術』著者略歴より)。以上は本人の著書からの武歴であるが、このうち3氏は首里出身であり、泊出身は松茂良氏だけであるから、本部朝基を泊手と限定して分類するのも正確ではない。

 

以上から、喜屋武朝徳氏は首里手と泊手の両方を修行しており、本部朝基も同様である。また、二人とも松村宗棍と松茂良興作の両師に師事している。それゆえ、喜屋武朝徳は首里手とか、本部朝基は泊手とかいった分類は、伝系上からも正確な分類でないのは明らかである。

本部朝基『私の唐手術』4頁より。
本部朝基『私の唐手術』4頁より。

さて、こうした分類には、もう一つ内容上の問題もある。それは首里手と泊手の内容上の相違が明確でないのである。本部朝基にとって、首里手とは糸洲以前の松村=佐久間の時代の手(古流首里手)である。また那覇手とは東恩納寛量以前の、糸洲安恒氏も師事した武士長濱の時代の手(古流那覇手)である。

 

この古流首里手と古流那覇手の間に稽古法において相違があったことは、本部朝基は自著で述べている。しかし、泊手についての言及はないのである。ただ一行だけ、廃藩以前、「ワンシュー、ローハイの二種は泊のみで行はれ」たと、述べているだけである。そして、この二種の型は本部朝基は稽古も教授もしていない。あるいは若年の頃習ったかもしれぬが、後年に泊手固有のこれらの型を稽古していない。そもそもワンシュー、ローハイともに、本部朝基が嫌う猫足立ちが含まれているから、重視したとは考えにくい。本部朝正によると、本部朝基はたとえ型であっても、猫足立ちは一切やらせなかったからである。

 

また、稽古方法について松村と(武士長濱の影響を受けた)糸洲は違っていた、とは述べているが、松村と松茂良が違っていたとは述べていない。松村先生は組手を重視していたらしいが、これは松茂良先生も同様である。ちなみに、松茂良先生の教授スタイルは、よく弟子に「宿題」を出すというものであった。例えば、組手の課題などで、松茂良先生は答えをすぐには教えずに、弟子達に次の稽古までに自分たちで正しい答えを考えてくるように教えていたそうである。これは琉球新報の座談会にも逸話として紹介されている。また、松村先生も型の運用(組手への応用)や実戦での臨機応変の大切さを説いていたという。それゆえ、思想的にも、松茂良と松村の間に大きな相違があったとは考えがたい。結局のところ、首里手と泊手の間には、個々人の個性以上の、本質的な相違はなかったと考えるのが妥当である。なお、松村先生と松茂良先生は試合をしたという説や、松茂良先生は松村先生に師事していたのではないかと推測する説もあるが1)、これらを同時代の史料から裏付けるのは難しい。しかし、何らかの交流があった可能性は十分考えられる。ちなみに、松村も松茂良も沖縄方言で「マチムラ」と発音し、両者はしばしば沖縄に伝わるエピソードでも混同されている場合があるから、空手研究者はその点も留意する必要がある。

 

そして、本部朝基の場合、首里手と泊手の相違よりも、松村=佐久間時代の古流首里手と糸洲以降の近代首里手の相違のほうをより問題視している。この相違について、本部朝基は著書や琉球新報の座談会で、たびたび注意を促している。この問題意識は、本部朝基固有のものではなく、例えば蔡嘉宝2)も「松村宗棍の唐手は本物だが、糸洲安恒の方は間違いだらけだ」とか、「沖縄県になってから、本物の唐手は姿を消してしまった。近頃の首里人がやっている唐手は間違いだらけで話にもならない」と発言していることから3)、「古流」を知る唐手家にとってはある程度共通認識としてあったと思われる。

 

 さて、一般に空手史では、松村先生や糸洲先生に比べて、松茂良先生の評価は低い傾向にある。これはあからさまに武術的に劣っているという記述があるわけではないが、そもそも言及自体が少ないのである。そうした中で、長嶺氏がその著書でわざわざ一章を割いて、松茂良先生の生涯を記してその偉業を讃えていることは素晴らしいことである。それゆえ、首里手、泊手といった区別の是非は別として、その流派名に松茂良先生の一字を含めて後世にその武徳を伝えたいというお考え自体は尊いものであると考える。

 

1) 松村(旧姓松茂良)興勝『空手(泊手)中興の祖 松茂良興作略伝』1970年、44頁参照。

2) 蔡嘉宝:蔡氏湖城嘉宝(さいうじこぐすくかほう、1849 - 1925)。久米士族。湖城流4代目。異名「学者タンメー」。儒学を学び、唐手道、棒、杖を修めた。

3) 儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボールマガジン社、1986年、95頁参照。