唐手部便り

高嶺朝保

沖縄県師範学校学友会編・松元完榮編

『龍潭第25号』沖縄県師範学校学友会 、昭和3年9月

沖縄県立図書館


大正十三年三月皇太子殿下(今上天皇)の御台覧を辱(かたじけの)うし、同十二年には朝香宮其の他皇族方の御台覧の光栄に浴し大正十四年の五月には秩父の宮御渡英の途次にも御台覧に供し奉る事の出来たのは先年唐手部便りに既に示された所である。


斯の如く特殊の光栄に浴して来た我が校唐手部の現状を顧みるに時代の趨勢に伴ひ漸く盛況に赴いたと化(ママ)は云ふものゝ尚微々たるものである。新文輸入に忙殺され、地方的特色を放棄して頗る暇の無かった廃藩置県当時以来体育方面に於ても我が国国技たる柔道剣道を取入れ諸学校に於て正課として之を実施し、心身の鍛練に供した事は甚だ喜ぶべき事なると同時に、又我が琉球に於て特殊的に発達し育まれて来た唐手が顧みられなかったのも亦悲しむべき事実でなくてはならない。少数の人々に依っては熱心に研究されたが、然し一般的には沖縄としては柔道剣道を過重視され唐手が両者の下位に位するものと考えられたのであろうか。少しも振はなかったのである。我が校友会唐手部に於て頼り無き生命を保されたと言ふも敢て過言では無いと思ふ。


然しながら此の様に衰頽に赴いた唐手が拾はるゝ可きチャンスは遂に来たのである。


斯道の達人本部朝基氏が世界的拳闘家として有名な外国人を京都大衆の面前で一撃の下に倒したその時より終に世界的武術としてその価値は世人の認むる所となったのである。


何処に産してもダイヤは矢張りダイヤに違は無い。時来れば光を放つ。それが自然だ。


それより先東京に於て富名腰先生が極力宣伝なされて居た。その矢先とて本部先生の勝利は世人をして唐手に対し驚歎の眼を注がすに充分であったのである。今や我が唐手は世界的武術の一に数へられ護身術として貴重なるものとなった。又体育法としても優秀なるものと思ふ。何となれば唐手は部分的のものではなくて全身的の運動でありその結果は身体の調和的発達を来し又精神鍛練にも大なる効果がある。その二は単独で行ひ得るばかりでなく練習するにも狭小なる所を以って足るから常に規律正しく行ふ事が出来得るのである。

 

漸く認められる様になってから、破竹の勢を以って宣伝されつゝある此の大武術が稽古の古い我が唐手部に於て何故振はないかと云ふに、私の考では先ず経費の問題もあるが第一に部員が少ないからである。では何故部員が少いかと言ふに他にも理由はあらうが、唐手部校友会の事業である事を忘れて、その部員と云ふのが或る一部の選手の人々に依って構成され他の人々は之に加はるゝ事が出来ないものと誤解しては居なかい(ママ)と思はれる。ではないとしても部員になるには非常に複雑な手続を経なければならないものと考へて居られるらしい。部員となるには極く簡単なもので一週間一回定められた日の放課後一時間居残って練習して下さればそれで部員である。


「本日唐手あり部員集合」実はこれが会員諸君の誤解をまねく様だから一言して置くが、今まで部員でなくても出席して下されば部員になれるのだから好きだが部員でないから等考へて呉れてはならない。之れが唐手部の発展しない大なる原因であると思ふのである。

 

皇族方を始めとして高位高官の方々来県に際し唐手演武依頼を師範学校にするのを以ってしても我が唐手部の歴史は長く先輩の残して呉れた名誉が多少伺はれると思ふ。此の歴史此の栄誉を末長く保持する任は実に諸君にあるを以って振(ふる)って出席なされ我が唐手部をして未曾有の盛況に導かれん事を衷心から希望する次第である。

 

※原文は旧漢字。一部句読点を補った。