露国拳闘家に勝った本部氏の豪勇

見事一撃で倒す

哀れ不具者となった露人

 

『沖縄朝日新聞』大正14(1925)年6月27日

サールーのあだ名で三尺の童子にもその名を謡われている琉球武術の大家、本部朝勇氏1)は老境益々その勇名を轟かし、最近は関西方面の某紡績会社に監視係として勤務していたが根が武術にかけては、

 

隼の如き凄腕を有する本部氏の事とて平凡なこの頃の日暮しは至って髀肉の嘆に堪えざるもののようであったが、過日京都市において露国から乗り込んで来た拳闘家が一般日本人の立ち会いを望んだので、隆々たる腕拳(うでこぶし)が鳴ってやまざる本部氏は真っ先に

 

試合を申し込み、幾多の合戦の中をくぐり抜けて錬(きた)えに錬え上げたその五体に渾身の勇を揮い起こして、露助の首筋にイヤといいうほど一撃を喰らわしたら、さすがの豪の者の拳闘家もヨロヨロとよろめき痛手を負うて直ちに降参。

 

本部氏は観衆から破れんばかりの喝采を浴びせられたが、気の毒にも露国人はそれ以来首筋が曲り、生れも付かぬ不具者となってしまった、この事が知れるや本部氏の評判は一時に各所に嵩(たか)まり、最近は武術普及のため東京に出ているが、

 

東京でも昨今大評判になり、機を見るに敏なる出版業者は本部氏の武勇を讃える記事の蒐集に取りかかり、雑誌キングの如きは八月号に露人との試合記を掲載すべく準備中である(東京通信)。

 

※原文は旧字、旧仮名遣い。適宜句読点を補った。  

1) 朝基の誤記。朝勇は兄。