本部御殿ゆかりの地

首里赤平町の本部御殿跡

本部御殿跡(ピンク色)。敷地は三分割して売却された。「戦前の赤平町民俗地図」より。クリックで拡大。
本部御殿跡(ピンク色)。敷地は三分割して売却された。「戦前の赤平町民俗地図」より。クリックで拡大。

本部朝勇先生、朝基先生が生まれた首里赤平村の本部御殿は、現在の首里赤平町1丁目、ゆいレールが走る赤平大通りの南側にありました。東隣は蔡温邸(具志頭殿内)、西側には与那城御殿、通りを挟んだ北側には義村御殿、南側には久志御殿がありました。

 

赤平町は首里城の北方に位置し、町の北側には首里八景の一つとして名高い、美しい松の木が生い茂る虎頭山がありました。王国時代は御殿殿内の大名屋敷が建ち並ぶ閑静な屋敷町でしたが、廃藩置県後は多くの屋敷は売りに出されて取り壊され、僅かに残った屋敷も沖縄戦で灰燼に帰しました。

東隣の蔡温邸跡の案内碑
東隣の蔡温邸跡の案内碑

本部御殿は18世紀には、龍潭に面した首里当蔵町のほう、元の沖縄県立博物館の場所にありました。王国末期、この地には中城御殿(王世子の宮殿)が建てられましたが、本部御殿はそれよりずっと前、19世紀前半には赤平町のほうへ移転していたようです(『冠船躍方日記』)

 

赤平町の本部御殿は明治20、30年代までありましたが、次第に家運が傾き生活が苦しくなる中で売却を余儀なくされました。売却の際、敷地が広大だったためなかなか買い手が付かず、仕方なく三分割してようやく売れたそうです。建物を取り壊す際、木を切るノコギリの音がいかにも物悲しく、それを聞いて本部家の人々は涙したと伝えられています。

 

現在、この場所は住宅街になっていて、残念ながら本部御殿の跡を偲ばせるものは何も残っていません。東隣の蔡温邸跡の前に那覇市が設置した案内碑があるくらいです。

本部御殿別邸跡

御殿井戸(ウドゥンガー)
御殿井戸(ウドゥンガー)

首里赤平町の本部御殿本邸以外に、かつては浦添市経塚に本部御殿の別邸がありました。現存する御殿別邸は、国の名勝にも指定されている伊江御殿別邸庭園(首里石嶺町)が有名ですが、こうした御殿別邸が昔はほかの御殿にもあったのです。

 

経塚(きょうづか、方言でチョウヂカ)は浦添市の南端に位置し、首里と隣接しています。このあたりは首里から近いこともあって、昔は首里から田舎下りしてきた士族が多く住んでいました。王国時代、首里王府への就職は大変厳しく、職にあぶれた士族の中には田舎に下って農業等に従事する者もいました。こうした田舎下りの士族集落を沖縄では屋取(ヤードゥイ)と呼びますが、経塚も典型的な屋取集落でした。

 

田舎に下ったとはいえ、経塚の人々は誇り高く、経塚のことを首里経塚(スイチョウヂカ)とか平良大名(テーラオーナ)と呼んでいました。これは自分たちは首里の流れを汲む者であり田舎者ではない、という意味です。平良大名は、経塚の南側にある首里平良町と大名町のことで、両町とも当時は西原間切の一部でしたが、経塚同様やはり首里からの移住士族がたくさん住んでいました。

 

本部御殿別邸があった場所には、現在「御殿井戸(ウドゥンガー)」と呼ばれる井戸があります。おそらく屋敷内にあった井戸だったのでしょう。このあたりは名水の産地としても有名でした。残念ながら経塚は沖縄戦の激戦地であり、他には御殿別邸を偲ばせるものは残っていません。

 

なぜ経塚に本部御殿別邸があったのは分かりませんが、昔はここには普天満宮へ至る宿道(国道)が通っていて、琉球国王が普天満宮へ参詣する際の経路(公事道、クージミチ)でした。また同じ道沿いの先には本部御殿墓もあります。それゆえ、本部御殿の人々がお宮参りやお墓参りへ行く際の休憩場所として最適だったのかもしれません。