手(ティー)の起源

東恩納亀助「唐手の話 ―起源、系統、変遷と武人― 」『琉球新報』昭和10年12月10日より

沖縄拳法(手)

本部朝基(中央)と東恩納亀助(右)、昭和初期。
本部朝基(中央)と東恩納亀助(右)、昭和初期。

我が県独特の拳法は今を去る235年前、即ち皇紀2360年1)、時恰(あたか)も元禄13年の尚敬王御在位の時2)、西平親方と具志川親方が合議の上、古来よりの武踊と喧嘩の秘術とを組み合わせて無手勝流の手揃(てなみ)と称して一般武官に教え、尚敬王に御前踊りとして御覧に入れたのが源で、王は初めてこんな男性的な武踊を見た、今後毎日朝夕に稽古し文武両道の士を養成する様に仰せられたので、両者とも一意古来文献と武術方面を研究し仕遂(しと)げたのが手となって後世に伝わったのである。

 

その当時、僧侶通信が支那より渡来し、沖縄独特の手を奨励すると同時に支那拳法も伝授し、益々(ますます)沖縄の手をして剛柔の術たらしめた。 

その後、尚穆王の時代、今から200年前に首里市赤田町の佐久川と云う人が支那に渡り(次の2字不明)、支那拳法のみを研究して帰り、沖縄独特の手に磨きをかけて益々一般世人に推賞せられる様になった。今日唐手佐久川と称せられる武人は此の人なり。また今から140年前、土佐の人戸部氏のものせる大島筆記に依ると、首里の人潮平某(ぼう)の談に支那人公相君と云う者が弟子を多数引き連れて渡来し、一種の支那拳法を伝えたとも云われている、また一説には慶長14年、薩摩の附属国となって一切の武器を取り上げられてから、沖縄独特の拳法を創造したのだという説もあるが、何れも是等(これら)の説は推測に過ぎないのである。

 

※一部、原文の旧字や仮名遣いを改め、読みやすいように改行や句読点を補った。

1) 皇紀2360年、元禄13年は西暦1700年。

2) 尚敬王は第二尚氏王統第13代国王。なお、尚敬王の在位は1713年-1751年であり、東恩納亀助の記す1700年は尚貞王(在位1669年-1709年)の時代である。尚貞王は本部御殿の初代・本部王子朝平の長兄に当たる