武と舞に一致点

『沖縄タイムス』昭和49(1974)年11月25日記事

空手“本部流”と琉舞“紫の会” 

双方が共鳴、研究重ねる

ここは宜野湾市大謝名の大通り。この一角に、西の海を見はるかすところに本部流“手 ”の指南をする「聖道館」の看板がかかっている。ちょっと人目にはつきにくいほどの小さいタテ書きの文字だが、ビルの三階の道場にはいってみると、八十畳敷の大広間、まるで柔道場のように床面いっぱいに畳が敷き詰められ、隅の方には六尺棒、短棒、舟こぎのエーク、ヌンチャク、トウファーなどがいっぱいかかっている。正面には「本部流流祖拳聖本部朝勇先生」の扁額がかかり、中央の神棚をはさんで「本部朝基先生」の写真がならぶ。道場では、黒帯姿の若者が、威勢よく「突き、けり」の練習をするものや、本部流独特の“舞いの手”の研究をする教士、練士級の師範の姿がある。「踊りの中に武の奥儀がある。これが琉球舞踊の真の精神だ」と、上原最高範士が、手ほどきをしながら教えている。

武の極致も舞に一致

昔から「空手と沖縄の舞踊は一致する」と言われながら、ではどういうところか、ときかれると、なかなか説明できる人はいない。ただ「体の線がどう」とか、「腰の入れ方に同じ姿勢がある」という程度で、ひどいのは二才踊りの「前の浜」が、空手と一番よくにているという論で片づけたりする。ただ漫然とそう思い、武の極致も舞に一致するというだけだったが、なるほど本部流の“手”をみていると、だれの目からも「舞と武の一致点」がはっきりわかるのである。

この本部流は、琉球王家の“秘伝”として、首里本部御殿に伝わる手であるという。この按司手という古武術と舞いの手が一体であるということを実証することに共鳴し、その一致点を追及しながら 、聖道館の師範たちと研究会を重ねているのが、琉球舞踊「紫の会」の会長島袋光裕氏(八一)である。

十月、十一月と、舞と武の研究会はつづき、第一回は那覇市古波蔵の「紫の会琉舞練場」(師範島袋光晴氏)で開いた。紫の会からは光晴師範のほか、島袋恵美子、池原勝子さんら師範級の舞い手が参加、本部流の道場からは上原最高範士のほか宮城寛教士、志喜屋喜代松、城間清範両練士、それに上原スガ子初段らが出席した。

まず、紫の会側の「伊野波節」「前の浜」「浜千鳥」の踊りをみて、その中に 含まれる舞いの手について上原範士がくわしく説明、弟子たちを相手に実技を披露した。

十一月には、光裕師匠らが宜野湾市大謝名の「聖道館」におもむき、こんどは畳の上で実際の手をいくつか見ながら、さらに深い研究を重ねている。

逆手を使って相手を倒す

本部流の技は普通の空手の型や構えと違い、あくまでも体の線をやわらかく保ち、逆手を使って相手を倒していく。つまり、手の力の入れ具合で、相手にケガをさせることなく、無抵抗にするが、さらに技を強くかけると、それこそ必殺の極意に達する不思議な武術である。けい古着に身を固めた門弟たちが上原範士と立ち合い、空手の組み手のようなけい古をしている。ちょっと手をふれたかと思うと、上原範士よりも筋骨たくましい大男たちが、コロリコロリと倒されてしまう。七十歳とは思えない上原範士の体さばきが、実にやわらかく、まるで「浜千鳥」でも踊っているようにしか見えないのに、指や腕の急所を押えられて相手は身動きができず、ドスーンと畳の上にぶざまな格好でダウン。

本部流の技と手には「元手」から「手」「取り手」「取り手返し」「裏返し」があり、 合戦手、合戦棒、拝み手、返し手、からめ手、抜き手、投げ手と、すべて実戦につながる技しかない。その上にくるのが奥儀「按司方の舞いの手」となる。「按司方の舞い方ただ思て見るな、技に技すゆる奥手やりば」という琉歌が示すように、型の中には真の技は含まれず、舞い、体さばきから一切の必殺の力を発揮する。

上原範士の話によれば、本部流の手は廃藩後、按司方ウメーといわれた本部朝勇師だけが継承したとのこと。朝勇師は大正の末期、没落して資産もなく、ただ奥儀だけを、本土に住む次男の朝茂氏 (幼名虎寿)に伝えることを考えた。その秘伝を、息子に伝えるために朝勇師はまだ少年であった上原氏を見込んで、徹底的に技を仕込み、同氏はわざわざ和歌山県に住む朝茂氏を訪れた。しかし朝茂氏は親の遺志をきいただけで、後継者としての活動をせず、結局は上原氏のみが、この秘伝を受けついだことになった。

本部流の型は琉舞に酷似

上原氏は旧小禄村字小禄の出身。大正六年から朝勇師につき、那覇辻端道の朝勇師の道場で鍛えられた。大正十五年まで、同じく「ナンミンモウ」の下の沖縄空手研究クラブで修練、その後比島に渡ったが、昭和二十二年に沖縄に引き揚げ大謝名で、ささやかな道場を開いた。全沖縄空手古武道連合会理事長を経て、現在同連合会称号段位実技審査委員長をしており、今年の十月、同連合会から功労賞を受けた。

上原氏は、この本部派“手”を門外不出の技として、自分一代限りにしようと思ったらしいが、二、三の弟子たちのたっての希望に、ついに本部流の道場を開くことを決意した。しかし、奥儀を伝えるのに、その人間の性格や人柄をみなくては悪用される危険性もあるとして、現在十人程度の師範クラスにしか伝授していない。

光裕師匠は往年を顧みながら「体の動き、足の転身、力を抜くこと、ムリせぬことなど本部流の教えば舞踊と酷似している」と語った。外は入れないが、 ある瞬間に、その力が集中されることがある。これが舞踊では「アテ」になる。 次に舞いも武術の「手」も一瞬も停止してない。 糸の結び目のような停止部分がなく、少しのよどみもない。本部流では 「攻撃の中に防御があり、防御の中に攻撃がある」と説く。「恐ろしい武術だ。舞と武の神髄も同じ」と感じ入る光裕師匠だった。

(本社編集委員・徳田安周記者)