本部朝勇先生

生い立ちと略歴

本部朝勇先生
本部朝勇先生

本部朝勇(もとぶちょうゆう)先生は、1865年、琉球王族・本部按司朝真の長男として出生されました。王朝時代の正式名は、伊野波按司朝勇と言いました。伊野波按司(いのはあじ)とは、本部按司の嫡子の称号で、本部御殿が領した本部間切の中心である伊野波村に由来します。

 

御殿の嫡子は元服と同時に、初位から最高位階である按司の位に昇りますが、その際領地とする間切の中心村(今日の県庁所在地)の名を、若按司の称号として国王から賜る慣わしになっていました。妻は三司官(宰相)・小禄親方良忠1)の四女・思武太(うみむた)でした。

 

朝勇先生は、幼少の頃より父について本部御殿手を習い、成長するにつれてさらに武芸の幅を広げる目的で、松村宗棍先生や糸洲安恒先生といった当時の諸大家を招いて、数多くの空手も習得されました。また、弟の朝基先生や友人・屋部憲通先生とともに、泊手の松茂良興作先生宅へ行き、泊手も修業されました2)。

最後の名優・玉城盛重。本部御殿の分家の松島親雲上3)らに御冠船踊りを師事した。
最後の名優・玉城盛重。本部御殿の分家の松島親雲上3)らに御冠船踊りを師事した。

覚えた型の数は30にも及び、武器術はもちろん馬術も得意で、気が向いたときには首里から読谷村まで馬で遠乗りに出かけたりしました。当時、武芸の幅とその知識の深さにおいて、朝勇先生に比肩しうる者は誰もいませんでした。

 

また、武術以外にも琉球舞踊や琉歌も愛する教養人でもありました。琉球舞踊の巨匠・玉城盛重氏(1868 - 1945)とは親しい友人で、踊りの手法についてよく二人で語り合われていました。今日、沖縄の人々に広く愛されている琉球舞踊「浜千鳥」は、玉城氏が作られたと言われていますが、本部御殿手ではこの「浜千鳥」を舞いの手の基本としてよく稽古します。他にも、朝勇先生は三味線が得意で、自ら『ウフブシ(大節)』いわれる古典をよく歌われていました。

 

晩年まで王族としての誇りを忘れず、断髪を拒否して王朝時代そのままにカタカシラ(髷)を結い、按司の証である金のかんざしを差し、その高貴な美しさを人々は「御前方(うめえかた)の美(ちゅ)らさ本部御前」と誉め讃えました。

 

1) 小禄親方良忠(1819 - ?)は、五大名門の一つ、馬氏小禄家の第12代当主。1857年、三司官に就任。

2) 武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!を参照。

3) 松島親雲上朝董(? - 1900)は、本部御殿九世で琉球王国滅亡時の松島殿内当主。父・松島親方朝陳、母・嘉手苅翁主(尚灝王七女、1820 - 1861)の長男として出生。松島殿内は、五世・本部按司朝救の次男・松島親方朝常を系祖とする本部御殿の門中。朝薫は、廃藩置県後、那覇・仲毛芝居で、玉城盛重、渡嘉敷守良ら、のちに名優として名を馳せる役者たちを育てた。

沖縄唐手研究倶楽部の設立

唐手研究倶楽部新築の記事(『沖縄タイムス、大正15年1月31日)
唐手研究倶楽部新築の記事(『沖縄タイムス、大正15年1月31日)

大正12、3年頃、波上宮の東にあった”ナンミンモウ”1)の下に「沖縄唐手研究倶楽部(通称・クラブグヮー)」を設立して会長に就任し、後進の指導に当たりました。このクラブには、喜屋武朝徳、照屋亀助、摩文仁賢和、宮城長順、城間真繁といった先生方が出入りして、朝勇先生から直接教えを受けていました。また、上原先生も師の茶ワカサー(お茶係)を名分にして、最年少で出入りしていました。このクラブでは、朝勇先生は、会長として、また沖縄空手界の最長老として、空手の理論から実技に至るまで、そのすべてを指導されていました。例えば、宮城先生に型の分解を教えたり、摩文仁先生に捕縄術を指導されたりしていました。

 

朝勇先生は、その高貴な血筋ゆえに直接名前で呼ばれることなく、喜屋武先生や宮城先生などからは「按司加那志前(アジガナシメー、按司様の意)」と、王朝時代そのままの尊称で呼ばれていました。大正時代とはいえ、廃藩置県が遅く明治中頃まで独立運動も盛んだった沖縄では、まだ人々は王朝時代の旧慣を大切にしていたのです。

また、朝勇先生は足技に優れていて、「本部の足(ひさ)」「本部の蹴り(きりち)」とあだ名されるほどでした。さらに相手からの攻撃に対する体捌き、足捌きにも優れていました。上原先生は、「クラブグヮーで当時の多くの大家の動きを実際に見たが、朝勇先生のような体捌き、足捌きのできる人は他には誰もいなかった。そもそもあの当時は、朝勇先生以外には、相対稽古をする人はほとんどいなかった。大家と呼ばれる方々も、もっぱら型の稽古が中心であった。自由組手も、辻町での掛け試しを別にすれば、存在しなかった。もしあったという人がいれば、その人は誇張して言っている」と語っています。

 

実戦における体捌きや足捌きの高度な技法は、大正時代にはすでに一般には失われていたのです。今日行われている組手は、昭和以降、それも主に戦後創作されたものであり、王朝時代から続くものではありません。実戦における種々の古伝組手技法は、ただ朝勇先生と朝基先生においてのみ継承されていたのでした。

 

1) ナンミンモウ(波上毛)は、現在の那覇市旭ヶ丘一帯。モウとは野原や広場の意味で、波上宮の東は現在は公園になっているが、当時は広々とした丘陵だった。

晩年

首里城南殿
首里城南殿

大正12年、首里城南殿にて開催された演武大会に出演して、弟子・上原清吉とともに「ウフクン(大君:公相君大)」を演武、また翌13年の那覇劇場の演武大会にも出演して、同じくウフクンを演武しました。

 

朝勇先生は、一般の場所では決して本部御殿手――朝勇先生自身はただ「御主加那志前(ウシュガナシメー、琉球国王)の武芸」とだけ呼んでいましたが――を見せないようにしていました。そのため、こうした演武会では、普通の空手の型を選んで演武していました。それゆえ、一般の人は朝勇先生の本当の技を見る機会は、ほとんどありませんでした。

 

そして、朝勇先生は本部御殿手を弟子の上原先生と実子・朝茂先生に伝えました。昭和3年、弟の朝基先生とともに久米島に空手演武に出かけた帰りに体調を崩し、3月21日、帰らぬ人となりました。 

本部朝勇先生・遺歌

1. 寄ゆる歳波に遺す物ねらん

 

ただ遺ち行ちゅし我みの手並

 

歌意:年老いて自分がこの世に残していくものはもう何もない。ただ遺してゆくのは、自分が受け継いだ武の技だけである。

2. 若松とともに若竹ゆ育て

 

本枝の栄え年と共に

 

歌意:私は若松(本部朝茂)とともに若竹(上原清吉)を育て御殿手を伝えた。御殿手は大樹の年輪のように、幹も枝も繁茂し、年月とともに幾世までも栄えることだろう。

3. むちぬてる糸にとらわれる鷹ん

 

怪我んねんむんぬぬんち飛ばん

 

歌意:鳥モチを塗った仕掛け糸に捕らわれている鷹は、怪我もないのにどうして飛び立つことができないのだろう。相手を無抵抗にして取り押さえる。御殿手の技もそのようなものである。

4. 風にうちなびく若竹のごとに

 

技やむちむちとかるくかわし

 

歌意:風に吹かれてなびく若竹のように、相手がどんな攻撃を仕掛けてこようとも、真の技というのは、しなやかに、軽やかにそれをかわして対処するものである

5. 松の根の深さ掘てるうみしゆる

 

技の奥深さ学でしゆる

 

歌意:樹齢のいった松の樹の根の深さは実際に掘ってみなければわからないように、技の奥深さも実際に修業を重ねてはじめて知るのである。

6. 按司方の舞方ただおもてみるな

 

  技に技する奥手やりば

 

歌意:按司方(本部朝勇)の舞う姿を、単なる舞踊と思って見てはいけない。その舞の中には、技のうえに技が重なって尽きることのない武の奥義が秘められているのだから。