上原清吉「本部御殿手を本部家に伝える使命」

 

「琉球王家秘伝武術を語る」1992年4月4日より

 

本日はお忙しいところ、お集まりいただきありがとうございます。これから私が皆さんにお話し申し上げるのは、本部御殿の本部朝勇先生からお聞きし、直に教えていただいた技、そういう点をお話ししたいと思います。皆さんの前で、こういう多数の方々の前で、お話するのも本当に初めてのことでありますし、それでこれからのお話は皆様にもお耳に新しく、いままでお聞きにならなかったことも多々あるかと思います。


本日のテーマに「琉球王家秘伝武術を語る」としてあります。私の先生は、本部御殿の本部朝勇先生ーーいま写真にあるこの方が本部御殿の按司加那志前(アジガナシーメー)ーー本部朝勇先生であられます。本部朝勇先生のことは、当時有名な宮城長順先生や喜屋武朝徳先生、そういう方々も按司加那志前とはっきり呼んでおられます。

本部朝勇先生
本部朝勇先生

本部朝勇先生は、按司加那志前というのは、やはり王家の一族ーーいわば王家の次に来るのが御殿ーー御殿というのは王家直属の兄弟か子供達、そういう方が御殿になります。そういう御殿が普通は3代で消えるのが1)、本部御殿の場合には廃藩置県まで11代も続きました。そういう意味からも、やはり王家とのつながりがいかに深かったかということが、お分かりいただけると思います。お手元にありますように、王家と本部御殿の系図はパンフレットのほうに記載されております。


私が入門当時は、按司加那志前は辻町のほうに住んでおられました。私が入門当時の朝勇先生は、約60歳くらいのお歳でした。先生の場合は、御殿手というのは王家の武芸(ブジー)だから、余所(よそ)前で使ってはいけない、余所にも見せてはいけないと、あくまでも御殿手は(本部御殿の)長男だけに伝承される技だから、余所で使(や)ってはいけないというのが、私が入門してちょうど10年間もその話は聞かされております。御殿手はあくまでも戦(いくさ)に用いる手(ティー)である、王家には喧嘩に用いる手はないーー王家の手はあくまでも戦争に用いる手だから、そのつもりで、余所前ではどんなことがあっても使ってはいけないという、そういう教訓をいつも聞かされておりました。

 

で、なぜ一子相伝というのに、なぜ血筋も引かない私に教えたかという点、その点は皆さんも疑問に思っておられると思いますが、実を申しますと、朝勇先生には、按司加那志前には、3名のお子さんがおられます。長男が朝明、次男が朝茂、三男が朝俊。私が先生に武を教えてもらったというのも、3名の方々は本土に行かれて、一人も沖縄におられなかった。自分(朝勇)は年になっているし、技を残そうと思っても、肝心の息子さんたちがいないものだから、残すことはできなかった。そういうように悩んでおられるときに、ちょうど私が満12歳のときの7月に、先生の前に入門したわけです。


で、先生の技は、私個人に教えたのではなしに、自分の息子、自分の血筋に教えようと、残そうという意味から、私に教えてもらった。

本部朝茂先生
本部朝茂先生

私が、大正13(1924)年に、教えてもらった技を、先生の教えによっていま現在ーーこの写真が本部朝茂です。あだ名はトラジュー(虎の尾)、本部のトラジューヤッチー(お兄さん)といえば有名です。この方はどちらかというと朝基先生、本部朝基、いわばサーラーアジー(猿按司)ーー本部朝基といってもお分かりにならないかもしれませんが、本部ザールー、サーラーアジーといえばお分かりと思います。そのサーラーアジーは本部御殿の三男です。いわば朝勇先生は朝基先生のお兄さんに当たる。実際の御殿の血を引いたご兄弟である。

 

その意味で、私は大正13年に、いま申し上げた本部朝茂、トラジューヤッチーに半年間和歌山で伝授してきました。で、いま申し上げたように、朝茂先生は朝基先生に、いわば叔父さんに師事をされて、剛拳の場合には、皆様ご承知の通り、あの当時トラジューという名前までついたーートラジューというのは虎のしっぽのように敏感に動くというーーそういうあだ名の付いた有名な武人です。和歌山では、あの当時、非常に有名な方になっていたのです。

 

その朝茂先生が、いわば私が(朝勇)先生に教えてもらった技、先生には「あんたが行く朝茂は、いわば猛者だから、あんたは遠慮することなく、おれにやったようにぶつかっていけ。何も遠慮することないから、思い切って、突いたり蹴ったりいきなさい。あんたぐらいの人間は(朝茂から見れば)問題じゃない。おれに相手するとおもっていけばいいから」と、そういう指示で、私は和歌山に行きました。

それで、私が行ったときには、朝茂先生は(朝勇先生から)預かった手紙を見ながら、「ヤールヤンナー(ほんとに君かね)?」と。といいますのは、朝茂先生とは17歳も歳が違います。それで、私の場合は満で20歳、ほんの、いまご覧の通り、こういう(小柄な)大きさの人間です。で、トラジューヤッチーの場合は、写真で見られるように大柄です。

 

だから、私に「ヤールヤンナー? ヤールヤンナー?」と言ったので、私は「はい、私です」と言った。本気になさらないくらいの様子だった。で、いよいよーーまあ、手紙にはどういうことが書いてあったのか、私には分かりませんがーー、「じゃあ、立っちまー(立ってみなさい)。立っちちちまー」と。ということで、お互い立った。(朝勇)先生にぶつかっていったように、思い切ってぶつかって、ほとんど一発で、相手は鍛えた体だけれども、ほんのこの指先の一発でガタンときた。それが、これは事実、トラジューヤッチーがはじめてびっくりしたのも、そして私自身を信じたのもその一手であります。


と申しますのは、先生から俺にぶつかるようにやりなさいと、言われたそのなんがその一発勝負。それがトラジューヤッチーに信じてもらい、いま申し上げたように、叔父さんに当たる朝基先生に教えてもらったあの体に、しかもトラジューヤッチーという武名が付くような、あの体ーーそういう体にほんの半年間で、わたしが10年間もかかって会得した技が、まさか半年間で会得された。そういう意味で、私の場合は、先生に教わった技というのは、あくまでも自分の血筋に残すための技だったんです。

で、わたしがなぜ12代というか。朝勇先生の場合は11代です。按司加那志前の場合は11代。私に伝えてもらって、それで朝茂先生に伝授した。その意味で朝茂先生は13代になるわけです。で、私の務めはそのときに終わった。そのときに終わって、私は大正15年の12月、私の兄さん、次男がフィリピンに行っておりました。フィリピンのダバオのほうに。その兄さんからの呼び寄せでフィリピンのほうへ行くことになったのが、ちょうど大正15年12月17日です。那覇港から出発しました。

 

あの当時のフィリピン行きは、神戸のほうで、目の検査、十二指腸の検査もぜんぶあっちでやる。あっちのほうで検査をやってはじめてパスポートが手に入り、そして目的地へ出発するようになっていました。ところが、私がちょうど神戸に着いたのは、大正15年のたしか12月23日だと覚えております。大正というのは、15年の12月25日に終わっております。私が神戸について2日目には、大正は昭和に変わった。昭和というのはたった6日間、一週間で元年は終わっております。そして、昭和2年の2月の末に検査も合格し、そして、フィリピン行きのパスポートももらって出発しました。

 

あの当時の外国航路というのは、ぜんぶ貨物船です。貨物を積んで、長崎から、神戸から出ても台湾で2日間も高雄等2つの港で荷物の積み卸し、それからフィリピンへ行く。フィリピンでも各地方を回って麻等の積み卸しをして、ダバオの目的地に着いたのが、ちょうど昭和2年の3月27日にダバオに着きました。


昭和2年の5、6月には朝勇先生は亡くなられたという、これも終戦になって帰ってきてから分かったのです2)。それと、朝茂先生、しかも13代目も技を受け継いだ朝茂先生がたった戦争で、アメリカ軍の空爆で大阪のほうで亡くなっておられます。それで、元の振り出しに戻ってしまった。と申しますのは、先ほども申し上げましたようにせっかく按司加那志前の使いで和歌山まで行って教えてあげた朝茂先生が、爆弾で吹っ飛ばされてしまった。で、この技というのは、自分としてはもう務めは済んだという意味でやっておったものが、終戦になって帰ってきて、また振り出しに戻って血筋に戻さなくちゃいけないという意味で、朝茂先生に伝えた技を今度は誰に受け継いでもらうか。

神戸にて。昭和51年。
神戸にて。昭和51年。

血筋の方には朝明先生の長男の朝達先生がいま現在大道区におられますが、この方は「武については一切やってないから、自分では無理だから、じゃあ自分の息子に教えてくれ」という意味で、息子さんはあの当時ちょうど大学へ行っておられました。その息子さんも連れてきて、「じゃあ、この子に残してもらうように」という意味でなんしましたが、息子さんもやっぱりそういう武よりは学問のほうがいいという意味だったでしょう、あれっきり来てもらえなかった。


その意味で今度は14代目は、大阪におられる本部朝基先生の三男、朝正さんが大阪におられます。本部朝正さんは警察を警部補の地位で定年退官しており、現在は骨接ぎの治療をやっておられます。この方は警察では柔道五段、「俺は柔道では負けたことはないから」と豪語するくらいの方です。この方は一昨年、第一回の世界武芸祭ではコンベンションセンターで一緒に演武に出てもらいました。また昨年の大会にも参加してもらって、そしてあくまでも御殿手をそのまま継いでもらうためには、数多くこう稽古しなくちゃいけないという意味で、私が大阪に行ったり大阪から来てもらったり、そういう意味でいま14代目は本部朝正さん、それに受け継いでもらうように致しております。

 

 

1) 正確には御殿の歴代当主に功績がなければ、7代で士分に降格する。

2) 戸籍謄本には昭和3年3月21日死亡と記載されている。