ジッチンについて

ジッチンは本部御殿手に伝わる型である。漢字で実戦と表記する。ただしこの表記が本来のものだったのかはよく分からない。あるいは戦後に付けられた当て字かもしれない。上原清吉先生の初期弟子の方が書かれた昔の記事にこの表記が使われているが1)、記事を書く際に意味を考えて漢字を当てた可能性もある。上原先生は晩年はただジッチンとカタカナ表記をしていたように思う。後述するように、実戦と書いてジッチンと読ませるのは、この型の意味を考えると、おかしくはない。

 


ジッチンに限らず、空手の型の漢字表記はたいていは近代の当て字である。元来、空手には「伝書」の類がなく、型の名称もすべて口伝で伝わってきているので、長い年月を経て、元の漢字表記が分からなくなってしまった場合が多い。

 

さて、ジッチンは、平成4(1992)年に行われた首里城空手奉納演武で、上原先生が演武している。この奉納演武は、首里城復元を祝って開催されたもので、上原先生は沖縄空手界の長老6氏の一人に選ばれて演武した。実は大半の本部御殿手門人がジッチンを見たのはこのときが初めてで、それ以前は昭和36(1961)年に沖縄古武道協会(昭和36年設立)が主催した古武道演武大会でやはり上原先生がジッチンを演武しただけであるから、実に31年ぶりの公開演武であった2)

 

上で、ジッチンは本部御殿手に伝わる型と書いたが、「本部御殿手の型」と言えるかは分からない。むしろ、「唐手(とうで)の型」と言うべきなのかもしれない。なぜなら、本部御殿手には元来型はなく、ジッチンの立ち方も本部御殿手の腰を落とさない立ち方(タッチュウグヮー)ではなく、腰を落としたナイハンチ立ちもしくは四股立ちに近い立ち方だからである。実は上原先生は本部御殿手とは別に、本部朝勇先生から唐手の型もいくつか習っている。昭和40年代以降、上原先生は弟子が唐手の型の稽古に流れるのを嫌って教えなくなったが、昭和30年代にはまだ唐手の型を教えていたそうである。

首里城空手奉納演武のパンフレット、平成4年。
首里城空手奉納演武のパンフレット、平成4年。

ジッチンの解説について、上原先生が直接語ったものが奉納演武のパンフレットに記載されているので、以下に引用する。

 

「攻撃は前後左右の四方におこない、受けがなく相手の攻撃は流すように体でかわすと同時に攻撃をおこなう。拳は使わずすべて貫手を使用し、急所を攻撃することによって相手の体の神経を一時マヒさせる。蹴り技は、相手の側頭から首すじにかける線上に蹴りを入れる。通常は腋下の急所及びティーチジョーキ、下腹部の膀胱と腎臓の位置を目標とした直蹴りをおこなう。」3)

 

 なお、パンフレットでは四方に攻撃すると書かれてあるが、実際の演武では後方(首里城正殿側)への攻撃は省いて行われた。また、来賓に失礼になるという理由で、蹴り技も省略された。

 

正殿は琉球国王が座する場所である。ところが、奉納演武の設営が正殿を「背」にして設定されたため、上原先生は国王並びに王家に対して失礼なると大変気にしておられた。それで、正殿に向かって一礼したあと、後方への攻撃は省いて演武したのである。ちなみに、上原先生は大正12(1923)年にも、朝勇先生とともに首里城でウフクン(公相君大)を演武しているが、この時は首里城南殿前(正殿向かって右前)で行っている。

 

また、大正12年の演武の際には朝勇先生は白足袋をはいて演武したので、上原先生もこれに倣って白の室内履きをはいて演武した。上原先生はこのとき金の帯を締めているが、これは全沖縄空手古武道連合会(昭和42年設立、沖縄古武道協会の後継団体)から25年ほど前に授与されたものである。古武道連合会では、範士(九段以上)は金帯を締める規定であった。

沖縄古武道協会からの賞状、昭和36年。
沖縄古武道協会からの賞状、昭和36年。

他にも、平成4年のジッチンと昭和36年のジッチンでは、異なっている箇所がある。平成4年のジッチンでは剣術を想定して、刀で斬るような動作が挿入されているが、昭和36年のジッチンは素手を想定しているので、この箇所はなかったらしい。上原先生の説明によると、ジッチンは武器を想定するか素手を想定するかで、構成が変わるそうである。昭和36年に演武したジッチンは見事だったそうで、観客から感嘆のため息がもれたそうである。また、このとき、沖縄古武道協会からジッチンの演武に対して賞状が出ている。

 

他にもジッチンは一般の空手の型と違った特徴がある。それは、ジッチンを演武する際は、いかなる挑戦にも受けて立たなければいけないというものである。それゆえ、ジッチンを競技のような場で(スポーツの一種として)演武することは禁止されている。また、ジッチンは宗家しか演武しないというのが、本部御殿手では不文律になっている。

ジッチンのこうした特徴から考えると、ジッチンは舞方(メーカタ)の一種か、もしくはそれに関係する型であったのではなかろうか。舞方とは、別名唐手踊りや武芸踊りと呼ばれるもので、空手(唐手)と琉球舞踊が融合したジャンルである。今日ではほぼ失伝しているが、琉球王国時代から戦前にかけて、沖縄に存在した。田舎の舞方(北谷舞方など)が有名であるが、首里にも舞方はあって、朝勇先生もよく舞方を踊っていたという。

 

むしろ、田舎の舞方は首里から都落ちして田舎に下った士族が都の舞方を屋取(ヤードゥイ、士族集落)で伝えたものが起源ではなかろうか。唐手、琉球舞踊、三線などは元来士族の習い事であり、普通の農民は習わなかったからである。

 

北谷町に伝わる舞方には下記のような歌詞があるという4)

 

一、たちみそり 舞い方 わんや歌さびらヨーナー にせがする舞い方ヨー 見ぶしゃびけいヨーナー にせがする舞い方ヨー 見ぶしゃびけいヨーナー

二、くまやたるとむてい むりにしかきゆがヨーナー 生まりてるんちゃみヨー 死じぇにらにヨー

 

歌意:

一、お立ちください舞方よ わたしがうたいましょう 若者たちの舞い方は見ぼれするくらいすばらしい

二、ここに誰が居るとも知らずに けんか(腕だめし)うりにきたのか 生まれてはみたが 死んだことはないんだなー

 

上記の歌詞には、「もしよろしければいつでも相手になるぞ」という意味が込められているという5)。つまり、舞方を踊っている間はいつでも挑戦を受けて立つぞ、という覚悟のもとで、演舞者は舞方を踊ったわけである。もちろん、こうした習慣は戦前すでに廃れていたと思うが、歌詞に込められた意味から、昔の舞方には、実際そうした習慣があったと考えられる。ちなみに、今日我々は「舞踊」という合成語を使うように、舞も踊の漢字も同じ意味で使用しているが、もともと沖縄では舞(まい、モウイ)と踊り(おどり、ウドゥイ)の意味は違っており、前者は即興的なもの、後者は定型的なものを意味していたという(中山盛茂『琉球史辞典』琉球文教図書、1969年)。

 

もちろん即興的といっても、全く自由ではなく、ある一定のパターンを組み合わせて踊ったと思われるが、舞方も「舞」の字を使うので、ある程度音曲や感興に応じてその都度構成を変えて踊ったものと思われる。

 

さて、1)想定によって構成が変わる、2)演武する際は挑戦を受けて立たなければいけない、という条件から、ジッチンも(音曲は付けないが)舞方と関わりがある型であったのではなかろうか。実際、上原先生は「ジッチンは舞手(モウイディ)と思いなさい」と説明していた。また、ジッチンの冒頭部分は武の舞(按司方の舞方)と酷似している。

 

こうしたことから、ジッチンは通常の空手の型ではないし、また型競技のような場でスポーツ型として演武するのには不適切な型であるが、数年前、沖縄のある支部道場主がジッチンを無断で改変して道場生を型試合に出場させ、また自身も公開演武するという事件が起こった。この人物はジッチンは習っていなかったのだが(2007年本人証言済み)、他流派にほとんど存在が知られていないジッチンならば、改変しても気づかれないと考えたらしい。

 

「改変」というのは穏やかな言い方で、実際は中身をほとんど作り変えた「創作」である。この人物は上原先生の没後、「上原先生の型では試合に勝てない」、「型試合で弟子を世界チャンピオンに育てたい」等と競技志向の発言を行っていたが、型の競技規定そのものには無知であった。全空連では指定形と得意形のリストがあり、このリストに登録されていない型は演武不可能であるが、ジッチンは登録されていない。また、WKF(世界空手道連盟)にも型リストがあり、登録型以外の型は演武不可能であるが、ジッチンは当然登録されていない6)。また、WKFではわずかな改変(slight variations)は認められているが、構成がそっくり入れ替わるような大幅な改変は不可能である。つまり、ジッチン自体が沖縄のローカルな大会でしか演武できない型で、改変しても全国規模の大会や世界大会では演武不可能なのである。

 

なるほど全空連の型リストにも、「伝統型」かどうか疑わしい型はある。また、かつて大きく改変された型も中にはある。しかし、それは数十年前の、いまより大らかな時代に可能だったことであり、今日そのような創作・改変は不可能である。上原先生のジッチンはすでに数年前から第三者によってYouTubeにアップロードされているし、大きく改変すれば比較されて指摘されるであろう。

 

沖縄県はいま空手のユネスコ無形文化遺産の登録を目指している。伝統型の改変は流派の歴史への背信行為だけでなく、沖縄の空手の歴史そのものへの背信行為でもある。そのような改変で一時的に競技の場で好評を博しても、いずれは改変が露見して批判されるであろう。そのとき批判されるのは当該道場主だけでなく、流派全体である。当該人物は当然流派を出されることになったが、創作改変するのならば、自らの名字を冠して新たな流派を興して行うべきである。そして、新しい流派のもとで型を創造して、自らの名を後世に刻めばよい。間違っても「本部御殿に数百年伝わる型」などと詐称しないでもらいたい。それは武術歴史の捏造である。

1) 多和田眞淳「琉球の武術」『琉球の文化』第4号、琉球文化社、昭和48年、153頁参照。

2) 他にも昭和30年代から40年代にかけて、上原先生はジッチンを1、2回演武した可能性があるが、当時の事情を知る初期弟子の方々の記憶も曖昧で、資料も残っていないので確証的なことは言えない。

3) 「首里城空手祭」パンフレット6頁、主催沖縄空手道懇話会・琉球新報社、平成4年11月。

4) 高宮城繁・新里勝彦・仲本政博『沖縄空手古武道事典』、柏書房、2008年、312頁参照。

5) 同上312頁参照。

6) 全空連やWKFでは、本部御殿手に限らず、一部を除いて沖縄諸流派の型は演武できない。これらの組織の型リストはすべて本土4大流派の型を元にしているからである。別の言い方をすれば、本部御殿手の型でなくとも、本土の型を演武すれば全空連やWKFの試合に出場可能なのである。それゆえ、自流派の型の改変に拘る意味はないのである。