本部御殿手の投げ技

上原先生が亡くなられた年(2004年)、ある武道雑誌で上原先生の追悼特集が組まれていた。そこには、昔の上原先生が本部御殿手の投げ技をしている写真が掲載されていたのだが、なぜかその写真のキャプションには、「50代前半の宗家が柔道をしている」貴重な写真と説明があった。

 

その投げ技の写真の相手役を務めていたのは翁長武十四氏であったが、翁長氏が入門したのは昭和34年(1959年)、投げ技を習い始めたのは(ご本人によると)昭和38年(1963年)頃だったそうであるから、どんなに古くともその写真は上原先生59歳頃のものである。上の写真はまさに昭和38年に上原先生が翁長氏を投げている写真であるが、この写真よりはお年を召していたように見えたから、おそらく60過ぎの写真だったのではないだろうか。その記事のライターがなぜ50代前半の上原先生の写真と思ったのかその根拠は不明であるが、単に若々しい上原先生の写真の姿を見てそう思っただけだったのかもしれない。

 

しかし、上原先生が昭和30年代に柔道を習っていたという話は聞いたことがなかったので、それから数年後、念のため当時の門弟であった比嘉清彦先生に単刀直入に「上原先生は柔道を習っていたのですか」と尋ねてみたことがあった。すると比嘉先生は笑いながら言下に「そんなことはありません」と否定されていた。それで、結局あのキャプションは雑誌のライターが御殿手の投げ技の写真を見て、勝手に柔道の投げ技だろうと思い込んだものだという結論に達した。 

たしかに上の写真のように、撮る角度や瞬間によっては柔道の投げ技のように見えなくもない。しかし、上の写真の技で言うと、実際には左の写真のように、まず相手が突いてきたのを左手で捉えて、右手で相手の首もしくは襟を掴んで投げているのである。


本部御殿手の投げ技は突き蹴りといった攻撃をしかけてくる相手を取って投げる技であるから、(少なくとも乱取りでは)当て身技のない柔道の投げ技とは、本質的に異なるものである。


また、本部御殿手では、通常の空手よりやや遠間の間合いから跳び込んで攻撃するので、たとえ投げている瞬間の写真では柔道のように組み合っているように見えても、実際にはそれは一瞬で、その前段階ではある程度の距離を保って互いに離れているのである。 

上の写真の投げ技を動画で見ると、左のようになる。――これが柔道の投げ技に見えるであろうか。御殿手の投げ技は突いてきた相手を体捌きでかわしながら、相手の腕や首元を掴んで投げるのであって、柔道のように互いに組み合った(掴み合った)状態から投げるわけではないということがお分かりいただけると思う。


攻撃法も、たとえば合気道で一般に見られるような頭上から手刀を振り下ろすのではなく、前手を用いた正拳突きか、それに蹴りを同時に加えたものである。もちろん本部御殿手には”貫手”もあるが、その用法は「指先」で眼、喉など身体の柔らかい急所部分を突いたり切ったりするために用いるのであり、頭上から振り下ろして「手の側面」で攻撃するといったことはしないのである(少なくとも上原先生がそういう攻撃をしたのを見たことがない)。体捌きも合気道で強調されるような「円運動」ではなく、直線的である。

 

本部御殿手では技の詳細は公開していないので、こうした誤解はやむを得ない側面もあるが、それにしても本部拳法でも戦後全く取材にも来ないであれこれあらぬ事を書かれてきた経緯があるので、ある程度解説を加えることは必要だと考えている。

 

それにしても、50代で柔道を始めてまともに習得できるものであろうか。その可能性についてはかなり懐疑的である。まず受け身の習得が困難だと思う。柔道や柔術を修行している人には意外に思われるかもしれないが、多くの空手家は実は受け身が苦手である。基本の前方回転受け身すらできない人は多い。空手家で受け身ができる人は若い頃に柔道を習っていたとか、たまたま通っていた空手道場の師範がやはり柔道や柔術経験者で、稽古のカリキュラムに受け身を取り入れていたとかではないだろうか。投げ技は受け身と表裏一体であるから、受け身ができなければ投げの稽古もできない。

 

ちなみに戦後沖縄で投げ技を系統的に教えていた流派は、私が知るかぎりでは、本部御殿手と湖城流のみである。(流派のカリキュラムとは別に、道場主が個人の考えで私的に投げ技を教えていたような例は除外する)。

 

さて、上記の追悼特集では上原先生は様々な他武道も熱心に研究していたようだという「推測」が書かれていたが、それもこの際事実とは異なるということを指摘しておきたい。実際の上原先生は本部御殿手以外の武道には興味のない人であった。上原先生のお宅に伺ったことがあるが、武道関係の蔵書は意外なほど少なかったのを覚えている。上原先生は他武道や他流派の技を研究の末に取り込むようなことには全く関心がなかった。また、弟子が他の武道や流派の技を(たとえ元の出身流派の技であろうと)、御殿手の技に混ぜるのを非常に嫌っていた。上原先生は本部朝勇先生が教えた技以外は学ぶ気も教える気もなかった人である。一種の「純粋主義者」である。もし他の武道に関心があるとすれば、それは立ち会った場合、御殿手の技でどう相手に勝てるか、という実戦的な側面の関心のみであったと思う。