昭和30年代の本部御殿手(4)

安田秀則

・昭和15(1940)年生まれ。八光流元師範。私は最初八光流をこちら(本土)で学んで、昭和37(1962)年に奥山先生が沖縄に行かれたとき、講師の一人として同行した。講習会で私は上原清吉先生の担当をした。私が教えた人の中で、一人だけどうしても技の掛からない人がいた。それが上原先生だった。

 

・上原先生は八光流の講習会に来たときには、すでにそれの裏をかく技を身につけている様子だった。私が掛ける技を逆手(さかて)に取るような、裏をかくような技をお持ちだった。こちらが掛ける技の弱点はすべて知っているような感じだった。

 

・私たちが帰るとき、上原先生は他の受講者と一緒に空港まで見送りに来た。そのとき上原先生が私の側に来て、「沖縄の空手を甘く見るな。もし君が空手を修業する気があるなら修業してから帰りなさい」と耳打ちした。私は当時まだ若く身軽だったので、「教えてくださるのなら、喜んでします」と言ってそのまま沖縄に残ることにして、2ヶ月くらい上原先生の道場で修業した。先生の人柄に惚れた。

 

・道場といっても実際の道場はなく、練習場所は、海岸や亀甲墓の上、あるいは材木屋の松田梅一さんの所の六畳くらい空き地などだった。

 

・上原先生に習ってみて、初めてこれだけ偉い先生がよく講習会にわざわざ参加したものだと思ってびっくりした。ああ、この人は普通の人とは違うなと、そのとき感じた。

 

・当時、私は20歳頃で上原先生は60歳くらいだった。上原先生は達人だと思った。いくらまねをしてもできない。練習内容は「そこに立って、こっちに向かってこい」と言われて、突いていくのだが相手にならなかった。まるで子供扱いだった。沖縄の逆手(ぎゃくて、関節技)は技が速い。スピードが速い。突いたり、蹴ったりするのと同じスピードで逆手を掛ける。私は八光流以外に大学で合気道も学んだが、だいたいにおいて本土の逆手は相手の手をとってそれから技を掛けるが、沖縄の技はすれ違いざまにはすでに技が掛かっている。上原先生が私が教えた技から取手を作ったとか、そういうことは断じてない。

 

・私は亜細亜大学で合気道も習った。八光流を習ってから合気道を二年間習った。合気道を習ってみて、ああ、八光流と合気道は一緒だなぁという感想を持った。実際、八光流の技は合気道に全部ある。八光流は力を抜け、ということを強調するが、そういうところが違うだけ。あと、八光流は10日習えば初段をくれるが、合気道は2年習ってやっと初段をもらえる。初段をもらえるまでの稽古時間が違う。


・上原先生の空手は急所が決まっている。上原先生の技は急所に狙いを定めて一瞬で技が極まるという感じだが、八光流や合気道はそういう感じではない。

 

・とにかく稽古ではこてんぱんにやられた。しかし、稽古が終わると、海岸などでウナギ取りをして楽しんだ。ウナギといっても2メートルくらいも長さのあるウミヘビみたいなものである。翁長武十四さんとも一緒に稽古して、私が八光流を教えて、彼に空手を教えてもらった。楽しかった。本当にいい想い出、宝物である。

沖縄物産展(熊本、昭和38)
沖縄物産展(熊本、昭和38)

 ・上原先生たちが沖縄物産展で演武するため九州に来られたときには、私が付いて鹿児島、熊本、博多と案内した。

 

・沖縄で最初に八光流を学んだのはS先生だったと思う。兼島信助先生にも沖縄でお目にかかった。沖縄の人はプライドが高かった。奥山先生は一回でも講習会を受講すれば、「もうお前は俺の弟子だ」と言う人だったので、沖縄の人は非常に反発した。講習会には出たがお前の弟子になった覚えはない、と沖縄の人は考えていた。

 

・福岡でも同様の軋轢があった。福岡にS流柔術の有名な先生がいた。この人が福岡で八光流の講習会を開いたとき習いに来た。講習会ではお金を払えば師範技まで習うことができたので、それでこの先生も一応師範技まで習ってみるかということでお金を払って、それで師範の免状をもらった。ところが、奥山先生は一度でも講習会に参加すると、「お前はもう俺の弟子だ」という態度を取る人だった。しかし、講習会に参加した先生たちにしてみれば、自分たちは講習会に参加しただけで、弟子になったつもりはないと。それで、この柔術の先生との間でもトラブルが起こった。私が八光流に在籍している間に、こういう衝突が他にもあった。私はこういう騒動に嫌気が差して、次第に八光流から足が遠のいてしまった。

 

・上原先生は、「この技を本部家に返すのが私の役目だ」と仰っていた。

 

・私はいま66歳で、去年、脳溢血で倒れた。いまリハビリ中だが、昔沖縄の空手を学んだおかげで体力が付き、いま順調に回復している。ようやく歩けるようになった。

 

(2007年5月30、2009年4月15日聞き取り)