同じように『琉球戯曲集』に、組踊『護佐丸敵討(二童敵討)』に「本部子(し)」という人物が母役で出演しています。組踊『忠士身替の巻』にも、二人の「本部子」が出演しています。「子」というのは、元服間もない10代の貴士族の称号です。おそらく、15、6歳の人物だったのでしょう。
そこで、『冠船躍方日記』を見ると、彼らは首里赤平村の本部家の長男と三男だったと記載されています。さらに『南島風土記』で調べると、首里赤平村の本部家とは、按司地頭家、つまり本部御殿だったことが分かります。残念ながら、本部御殿の家譜は沖縄戦で失われたので、組踊を踊った本部御殿の長男と三男が誰だったか分かりませんが、年代的に見てどうやら本部朝勇・朝基の父・本部按司朝真とその兄弟だったようです。
ちなみに、戌の御冠船踊りの踊奉行は、羽地按司、棚原親方、真玉橋親雲上、本部里之子親雲上の4人でした。「本部里之子親雲上」という称号が付くのは、通常は本部御殿の次男以下の者か、本部御殿の分家の小宗・本部家(本部朝救の四男・朝紀の家系)の当主のいずれかです。小宗・本部家の家譜は現存していますが、踊奉行に任命された人物は見あたらないので、踊奉行の本部里之子親雲上とは、当時の本部御殿当主の弟の誰かだったのでしょう。